自己表現とかくそったれ、んな暇あるならMAKE PARTY

  僕は自己表現という言葉が嫌いだ。

 嫌いになったきっかけは高校生の頃に聴いた一曲の曲だ。それが大阪のトラックメイカーであるokadadaがMaltine Recordsからリリースした「D is for DANCE」というアルバムの一曲目、「intro (F.A.L.D.)」だ。この曲では「自己表現とかくそったれ/んな暇あるならMAKE PARTY」という声が何度もリフレインする。当時、誰にも届くことのないような、自己満足のためにSNSで音楽を批評しているような人が増えている様を見て、違和感を感じていた自分にはこの言葉はとても刺さった。
 確かに精神を安定させる上では「自己満足」も大事かもしれない、けれど、読者不在の、自己満足のためだけの、自己表現は単なる自慰行為に過ぎないのではないか、それは時間を割くべき対象として正しいのだろうか?それなら他人や社会に何かしらの影響を及ぼすことにチャレンジした方がいいのではないだろうか?と思ったのだ。

 

そのことを思い出す出来事が先日あった。それは「自分が考えていたアイデアを他人が先に実現してしまって悔しい」という話を聞いたときだ。その話を聞いたときに僕は「カスタマーからすれば、そのアイデアによって課題解決されることが大事であって、誰がそのアイデアを実現したかどうかなんて、どうでもいいんだよなー」と思ったのだ。むしろ、他人が実現したことでカスタマーの課題が解決されたため喜ぶというリアクションさえ考えられるのではないか、と思った。

 もちろん、これはある種の極論で、多くの企業が成長していくために熾烈な競争をしている中で、このようなのほほんとした平和論では立ち向かう事は出来ないだろう。しかし、そうした企業が戦っていく上で下している意思決定は「自己満足や自己表現のためのもの」ではなく「勝つためのもの」であろう。僕は件の「アイデアを他人が実現してしまって悔しい話」を聞いて、そのモチベーションは「勝つための戦略」ではなく、「自己表現や自己満足」であるように感じてしまったのだ。どうやってその2つを切り分けるかにはもっと考える必要があるけれど。

 だが、そもそも人間は自己満足や自己表現のために仕事をしてしまいがちなのではないか、とも思う。それは単純にそうやって仕事をした方が自己肯定感が上がり、気持ちいいからだ。だが、そうやって仕事をするのは、仕事の成果を受け取る相手にも一緒に仕事をする相手にも失礼だと思う。カスタマー不在のコミュニケーション、デザイン、アイデア。それではビジネスではなく、アートだ。
 とは言ってみたものの、自分自身、自己表現や自己満足に囚われてしまいがちな性格だ。読む人のことを考えているつもりだけど、このブログだって、そう言った類のものかもしれない。だからこそ、「自己満足や自己表現のために仕事をしていないか?」「カスタマーや社会の課題解決のために仕事が出来ているか?」と自分には何度も問い続ける必要がある。

 最近、狂った起業家の「他人が聞いても真似しようと思わない狂ったアイデアを信じ抜ける力」そして「そのアイデアをやり遂げる実行力」はどこから湧いてくるのだろうか、と考えている。様々な本を読んだり、話を聞いて立った仮説は、おそらくそのモチベーションは「自己表現や自己満足」ではなく、「社会はこうあるべき、人々はこういう風に生きるべきということを信じ抜ける強固なヴィジョン」なのではないだろうか?というものだ。そんな風に「カスタマーや社会の課題解決のために仕事が出来ているか?」と問い直さずとも、カスタマーや社会の課題解決のために生きれる、大きなヴィジョンを持った人間に私もなりたい。自己表現とかくそったれ、んな暇あるならMAKE PARTYだ。

 

 

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