複製技術時代に失われたアウラと、データ通信時代に失われたアウラの差分とはなんぞや。

  同居人と昼飯の中華を食べながら、発展場として利用されている映画館って最初からそのような目的で作られたとは思えないし、どういう経緯でそのような使い方が根付いたんだろうか?と話していた。タクティカルアーバニズム然り、空間を作った人が想定していない空間の使い方を生活者が行う現象は興味が湧くので。

  同居人曰く「そもそも昔は映画館でいかがわしいことを行う人がもっといたのではないだろうか?」とのことだった。ドライブインシアターは車という密室で恋人といちゃつくのを主目的に作られた場所であるし、ポルノが日常に溢れかえった現代とは違って、映画館とテレビでしか映像を見なかった時代の人にとっては、ピンク映画や映画のエッチなシーンは現代に生きる我々からは想像できないほど、刺激的な代物だったのではないか、と考えれば、大人向けの映画館が情事に耽る場所として成立していてもおかしくないのでは?という考えがその仮説の論拠だ。(調べてないので実際のところはどうか分からない)

  その話を聞いて、VHSのドキュメンタリーを見たときに、VHSマニアたちが「中古VHSのおっぱいが出るシーンは必ずと言っていいほど、ノイズまみれなんだ。これまでの持ち主がそのシーンだけたくさん巻き戻しした痕跡がそうやって残ってるのさ」と話していたことを思い出した。インターネットでポルノが日常的になってしまった現代において、起こり得ない現象だろう。また思い出したことをきっかけに、VHSの持ち主が変わったとしても、テープのノイズという形でこれまでの持ち主の痕跡が残るのは改めて興味深い現象だなーと思った。

  振り返れば(めちゃくちゃ振り返るけど)20世紀初頭、機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になったことで、オリジナルの作品から「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする「アウラ」が失われると、ヴァルター・ベンヤミンは唱えた。しかし、21世紀初頭の現代において起きていることは、テクノロジーの発達において、芸術がモノを媒介とせず、web上のデータとして存在し、データのまま享受することが当たり前になる現象である。このことにより、芸術は、情報は、モノとして存在し得なくなり、唯一無二性のアウラだけでなく、存在としてのアウラを失った。

  前述の「おっぱいが出るシーンだけ何度も巻き戻されたため、ノイズまみれのVHS」のような存在はこの現象下では失われる。

  複製技術時代になることによって失われたアウラと、データ通信時代になることによって失われたアウラにはどのような差分があるんだろうか。誰かそんな本を書いてないなー。そういった文章を読んだことはあるけど、本のテーマとして書かれてるわけではなかったので、それをテーマに書き切った本が読みたいなーと思った。最近、読みたい本のテーマがどんどん思い浮かぶ。自分の中で適当に立てた仮説を立証しているような本ないかなーと思って探すのは楽しい。