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優しさの天才。

 こないだインターン先でクライアントとのワークショップの後片付けをしながら、一緒に仕事をしていた友達に「最近、気を遣う場面がすごい増えたんだよね」と何の気無しに言った。すると「それは気を遣う場面が増えたんじゃなくて、単純に気を遣うようになったんじゃないの?今日、すごい気を遣ってたよね」と言われた。その言葉をどう受け止めていいのか、もやもやとこの一週間ぐらい心の中に抱えている。

 僕は気を遣ったり、人に優しくしたりするのが苦手だ。そして苦手であることすら、大学中盤になるぐらいまで気付いていなかった。なんなら得意なのではないかぐらいに思っていた。色んな人から指摘されて、初めて自分は人の気持ちを思いやるとかそういうことが苦手なことを知った。大学生の社会に1/4歩ぐらい出たおかげで、自分の気の遣えなさを痛感することも多く、一生懸命に努力してはいるつもりである。だからといって、すぐにうまく歯車が回る訳でもなく、どうすれば人に優しくできるんだろうか、とぼんやりと考える。僕の周りの大人や友人でたまにすごく気が遣えるし、優しい人がいる。「どうすればこんなふうになれるんだろう?過去に何か大事なものを失ったのかな、じゃないとこんなに人間が完成されている説明がつかない」と思っていた。て訳で前述の仕事終わりの一言で「こんな僕でも周りに気の遣えてるように見るのか」とか「そもそも気を遣っているなんて分かるって気が遣えてるのか」とかとか思っていた訳だ。

 そんな折に「君の言い訳は最高の芸術/最果タヒ」を読んだ。途中で彼女なりの「優しさ」論が現れるのだが、その話が目から鱗すぎて驚いた。一部を抜粋して、ここに書いておく。

 

そして 、天然でそういうところをおだやかに 、察することができる人というのに憧れた 。でも 、今ならわかるのだけれど 、そういうひとはただの優しさの天才なんだよな 。あれが正しい大人の姿だと思っていたけれど 、ただの天才だったのだよな 。かなしいことに人間は他者にされた優しさというものにはちゃんと気づけてしまうから 、そして優しさなんていうのは誰だって無限に発揮できるものだとちょっと思いがちだから 、天才的な優しさまでもすべて自分だって発揮できると信じてしまって 、そして自滅することがある 。途方もない優しさの天才を人間としての基準と信じて生きてしまうと 、自己嫌悪と他者への軽蔑が止まらなくなり 、結果的に誰よりも優しくなくなってしまう 。この法則に誰か名前をつけようぜ 。で 、まあ 、しかしそういう天才たちは想像以上に特に考えていないというか 、まるで風を察知した繊細な綿毛みたいに他者の感情が乱れる直前 、そっと気づいてそして助ける 。たとえそれがどうして辛いのか 、論理的には理解できなくても 、察してしまう。もはや第六感とかそういうものじゃないかとすら思うの。マナーともまったく違っていて、本人も考えて動けるわけじゃない。で、だからこそ、たぶん、やろうと思ってできる類のものではないんだと思う。優しさにも閾値があるんですよ。人間。運動神経とかと一緒ですよ。で、それでも優しくされた時の感動だけはみんなわかるから、だからこそ人は考えて考えて、知識と想像力を駆使しまくって、天然での優しさが発揮しきれないかわりに、なんとか気を使おうとするんだろう。自分とはちがう立場の人にとって、必要なこと、主張するべきことえお、なんとか理解しようとする、傷つけないように気を配る。自分からは見えない景色をかき集めて、他者の視線を手に入れようとする感じ。優しさよりなんだかそれってかわいいよなあと思うのだけれど、どうでしょうか。

 

 読んでみればわかると思うが、僕は優しさの天才を見ながら、優しさの天才に憧れていた訳だ。といっても才能がなくても頑張らない訳にもいかないので、凡人なりに凡人なりのやり方で、これからも少しずつ見えない景色をかき集めていこう。

 

て訳でおすすめなので、「君の言い訳は最高の芸術/最果タヒ」をみんな買えばいいと思うよ。

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