ハレの日がハレの日でなくなった東京のハロウィン。

 11月3日の25時。近所のよく行く喫茶店は朝まで営業してるので、いつも長居するのだけれど、そのせいで合間合間に外に用事が出来るので少しの間、コンビニや本屋に行くために出たりする。チェルフィッチュの三月の五日間みたいだな、といつも思う。その喫茶店でレイトショーの上映までに持て余した時間で、今、僕はこの文章を書いている。

 

 野暮用で10月29日も30日も31日も渋谷にいた。三日間共、足早に帰ることもできたのだが、ハロウィンのコスプレを着た人たちの群れの中に折角いるので写真を撮ったり、眺めたりしていた。道路を通る車からは大音量のEDMが流れ、道でテキーラが売られていて、街はぐちゃぐちゃだった。何年も前に同じことを言ってる人は沢山いると思うが、主催者なきハロウィンに渋谷にコスプレした人が押し寄せるの中心なき運動でアラブの春っぽかった。そんなアラブの春からもう五年が経つらしい。こないだ仕事で五年前に起きたことを調べていて、そのことを知って驚いた。そう言われてみれば、中心なき運動体という話題は当時に聞けば、聞かなくなったように思える。「オキュパイウォールストリート」とか「イスラム国」とか中心なき、アメーバのような運動体の話題がこの数年で話題になったが、今年は新しくそういった運動を聞いた覚えがない。そんなふうに運動することが当たり前のようになったのか、それとも人々はそんなふうに動かなかったのか。そういえば、SHIELDsには先導者がいたっけ。

 

 あーでもなくこーでもなくとそんなことを話しながら、歩いていると彼岸にコスプレイヤーが待ち構える、渋谷のスクランブル交差点に着いた。赤信号で待っている間、隣で話していた友達に「ハロウィンでもここはホコ天にならないんだね」と思いつきを伝えた。すると隣からは「信号が赤と青を繰り返すことで、たくさんの人の塊が分断と結合を繰り返すから、それはそれでいいんじゃない?だから、皆、ハイタッチする訳だし、そっちの方が楽しそうじゃない?」って返ってきた。なんだかロマンチックな例えだった。分断と結合が起こるから、運動が発生する訳だし、運動が起こるから、ドラマが発生するんじゃないかって、そんなふうに思った。繋がりっ放しの日常からはドラマはな生まれないのかもしれない。そういえば皆さんは、アインシュタインが考えたESRパラドックスという量子力学パラドックスをご存知だろうか?簡単に説明すると「互いに相関する2つの粒子は、どんなに離れていても影響し合う」という量子学の現象である。もうすこし詳しく説明すると「スピン0の素粒子が崩壊して、二つの電子になる場合を考える。そのとき二つの電子のスピンの方向は必ず測定結果と逆の値を返さなければ、量子力学上おかしくなってしまう。ということはこの二つの電子はどれほど遠いうところにあったとしても、片方の電子の方向を逆にすれば、もう片方の電子の方向もその逆になるのである。」ということだ。これが何故、パラドックスなのか。量子力学上おかしくなってしまうので、全く同じタイミングで電子の方向が対照を描くとすれば、「片方の電子の向きが変わった」という情報は光よりも速く、全く同じタイミングで伝達されているのである、これは情報が時空を超えているということで、光速を超える相互作用は因果律を破るため禁じる、アインシュタインが唱えた相対性理論と矛盾するのである。現在では上記の電子の相関関係は存在すると証明され、相対性理論にも一部間違いがあったとして「EPRパラドックス」ではなく「EPR相関」と呼ばれている。先日、初めて聞いた話なので、間違いがあったら、申し訳ないが、あくまで今の僕の理解は上記のようなものだ。初めて教えてもらったとき、僕はなんてロマンチックな法則なんだろうと思った。一度繋がっていたものは、どれだけ遠く離れても相互に影響が与えられ続けのだ。なんだか「君の名は。」みたいな話で、自分がこれをロマンチックと言ってしまうのは、すこし気持ち悪い気がするが。「運命の二人」なんてものでなくてもしても、我々はいつだってたくさんの誰かとESR相関を結んでいるのではないのか、と思う。噂をされるとくしゃみが出るように。ハロウィンで隣にいた友達からの言葉をきっけに僕がこうしてブログを書いているように、仮装している誰かの写真を撮って僕があとでinstagramにあげて誰かから「いいね!」をもらうように、誰かの何気ない行動に僕は影響を与えられていて、そんなふうに貰いっ放しじゃ申し訳なくて、誰かから与えられた影響が僕を通して発露するとき、その影響の元にも何かしらの変化が起きていたらいいのにな、と思う。時空は超えることが僕らはできないので、もしかしたら結果は同時でなくてもいいから、遅れてでも影響の元になった人たちに何かが還元されていてほしい。

 

 ちなみにハロウィンのときに撮影した写真は全然よくなかった。僕は知らない人の写真を撮ることが苦手であるようだ。初対面の人の写真を撮ることも苦手で、ある程度の信頼関係が構築されないと、相手の家に土足で上がり込んでいるような気がして、撮影していて気持ちが悪い。そんな気持ちで撮影した写真からは僕の心がノッていないことが伝わる。だけれどもせっかく現像したのだから、下手くそな写真だけれども、Facebookにアップした。最近、Facebookの仕様が変更されて、イベントへの導線設計が丁寧になった。そうやってイベントごとが可視化されて、痛感するようになったのだが、東京にはイベントが多過ぎて、イベントに行く気がなくなってしまうところがある。イベントが同時多発的に起こりすぎてて、イベントに飢える気持ちがなくなって、イベントを逃したときの悔しさも減った気がする。この祭りを逃しても、明日にはまた新しい祭りが来る。まるで東京は情報が氾濫している、インターネットみたいだ。音楽のパーティーをやめた理由も行かなくなった理由も似た理由だった。東京には豪華なメンツのパーティーが連日のように繰り広げられていて、豪華なメンツのパーティーにも何も感じなくなってしまったのだ。東京はハレの日ばかりで、ハレの日がハレの日でなくなってきている。気づいたら、ハレの日よりも、曖昧な曇りの日の方が愛しく感じる。非日常な体験をすることがクールじゃなくなってきている気がするのだ。それよりもやろうと思ったら、いつでもやれることををやる方が、誰でもいつでもアクセスできるのに、情報の海に溺れてアクセスしてなかったものを選ぶことのほうがよっぽどクールな気がするのだ。ホテルで朝食バイキング食べたりとか、予定が空いた日に突然、旅行に行ったりとか、そんな拾われなかった可能性を選び取るほうがかっこいい気がする。日常の延長戦上の可能性を選び取りたい。ハロウィンを冷めた気持ちで見てしまうこと、ハロウィンのときに撮影した僕の写真が全然よくなかったことの理由にはそんなこともあるのかもしれない。11月の頭に平日の朝から、美味しい朝ごはんを食べるためだけに遠出したとき、通勤して街に出る人たちと逆流して、空いてる電車で目的地に向かうのは社会から自分が零れ落ちたように感じて、少しだけ気持ちがよかった。あーでもこーでもなくとそんなことを文章を打っていたら、レイトショーの上映時間が過ぎ去っていた。こうやって僕はモノも話題も散らかすのが得意だけど、整理が苦手で、頭の中はいつもこんな感じだ。だから、整理が得意な人にいつも話して、僕の代わりにまとめてもらっていて、そんなふうにまとめてもらうことに申し訳なく思っていたのだけれど、もしかしたら渋谷のスクランブル交差点よろしく、分散というアクションがあるから、整理というアクションも発生する訳で、何かを前に進めるためには、ドラマを生むためには、散らかすことも大事なのかもしれなくて、そう考えれば、自分がやっていることにも意味があるのかもしれないと思った。こうやって文章を打つことが誰かと相関関係を結ぶ、きっかけになればいいのだけれど。映画も観れないことだし、そろそろ家に帰ることにする。

 

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