口で伝えられる物語のように移ろい行き、溶けて幻に似た何かに近づく記憶の将来について。

 先日、夜中に友達が口笛を吹いていた。聞き覚えのある曲だったので、自分も口ずさみ、歌詞を当て嵌めてみると「真夏のピークは去った、天気予報士がテレビで言ってた」って言葉で「そういやもう秋か」と気付いた。翌日、雨模様の仕事の帰り道が半袖じゃどうにも寒くて、そのときのことが頭の中でぼんやりと思い浮かんでパーカーを買って帰った。

そんなふうに気付いたら夏は終わっていた。今年の夏はいつもの夏より多く働いて、いつもの夏より沢山お金を使って、いつもの夏より少しだけ遊ぶ回数は少なかった。確かなことは、いつもの夏より忙しかったこと。めいいっぱい会社で働いて、めいいっぱい友達と遊んだと思う。疲れたけど楽しかった。
ただ、疲れているせいか、日常生活で起きること、向き合わなきゃいけないことを投げ出してしまいたくなるときがこの頃、度々ある。仕事でやってることは投げ出す訳にはいかないからだろうか。そしてたまに実際、対処せずに投げ出してしまったりする。つい先日も小さなことだけれども、耐え切れずに投げ出してしまった。あとから振り返ると自分が嫌になる。これからは投げ出す人を見ても優しくしようと思ったし、何もかもを投げ出さない人になりたい。もしかしたら自分が何かを投げ出すとき、周りはそういうふうに気を遣ってくれていたのかもしれないと思った。
日常生活でも、仕事でも、周りの人の言葉や身振りの見えない意味に、僕はいつも後で気づく。自分が後輩の就活相談に乗っているとき、職場でメールの添削をしてもらっているとき、Messengerに残ったさりげないやりとりを見返したとき、僕が到底気づかなかった見えない意味にいつも後で気づく。UXのいい人間にいつか自分もなれるのだろうか。という訳で学生生活最後の夏は社会人に向けた助走のような形で終わりを迎えた。大学生活が終わりに近づき、思い浮かぶのは高校時代のことである。どのような形で終わりに向かって走っていたのだっけ、と思う。大学受験のこともあったし、そんなに青春を全面肯定するような日々ではなかったことは確かだが。
 そんな「君の名は。」を見てもピンと来ないような生活を過ごしたような僕が最近、毎月楽しみに読んでいる高校が舞台の漫画が「うちのクラスの女子がヤバい」だ。
 

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この作品を僕は毎月最も楽しみにしているのではないだろうか。ストーリーをまずは公式サイトから引用しよう。

1年1組は、どこにでもある普通のクラス。
だけど、他のクラスとはちょっとだけ違うところがありました。
なぜなら、女子生徒の大半が、「無用力」と呼ばれる思春期だけしか使えない超能力を持っていたのです――。
年頃女子はいろいろへんてこだったりするけれど、そんでもって年頃男子は振り回されたりもするけれど、それがフツーで、みんなかわいい。
衿沢世衣子が描く、思春期限定・ちょっと不思議なハイスクール・デイズ。

衿沢世衣子作品は「天心モナカ」あらため「シンプルノットローファー」を高校生のときにQuickJapanで読んで以来だ。「シンプルノットローファー」は何の変哲もない女子高に通う生徒達の、何気ない日常の欠片の物語なのだが、当時は全く面白いと思えなかった。そこで描かれる日常が僕にとって何も特別なものではなかったのではないだろうか。

といったふうに思い入れのある作家ではなかったのだが、新作「うちのクラスの女子がヤバい」が滅法面白い。作品の中で描かれる日常の機微が今の僕には失われた感情、いやそれどころではない、忘れ去ってしまっていた感情や言葉であるからだ。

学校のクラスメイトと距離を感じてしまい「学校選び間違えたかも」と漏れる言葉、いきなり告白されるも自分の心が動かなくてがっかりする気持ち、恋したいと思っていた自分にない気持ちを自分に告白してきた相手は持っていて「ずるい」と思う気持ち、「あの席、楽しそうだね 」という周りからの言葉。

どうしてこの作者はこんなにも高校生のときの気持ちや雰囲気を覚えていれるのだろう、と羨ましく思う。

また前述のあらすじにもあった無用力という設定も素晴らしい。イライラすると手がイカになってしまう、「かわいい」と思うとウサギの着ぐるみになってしまう、握ったおにぎりを食べた人の記憶が少し消えるなど、などなどどうしようもなく、くだらない能力ばかりなのだが、この無用力という設定が思春期特有のコントロールできない自分の体や心のアンバランスさのをメタファーとして見事に機能している。もちろん思春期特有のそういったアンバランスな状態を超能力として描くというのは使い古された設定ではある。スティーヴンキングミザリーを書いたのは、もう40年以上前の話だし、既に30年前に超能力学園Zによってコメディーものとして描かれている。だが、この作品の超能力学園ものとしての気持ち良さはその能力が役に立たないこと、またそれを当たり前のものとして周りが受け止めていることではないだろうか。周りの人は驚きはするものの、日常の何気ない一コマ、当たり前の個性として無用力の発現を受け止める。自分の個性というものは周りに受け止められるものなのだろうか、と周りが気になってしまいがちな思春期。そんな年齢において「飛び抜けた個性である無用力が日常茶飯事として流されること」はこれ以上の肯定はないぐらいの肯定なのではないだろうか。だからだろうか、不思議と心地いい高校生活に思える。そして、漫画で出てくる彼らと一緒に時を過ごしたい、と思う。そんな無用力もいずれ消えてしまう運命にある。彼女たちは卒業すると、無用力が消えてしまうのだ。青春の儚さ、私たちに許された特別な時間の終わりのメタファーとして、無用力は見事なのである。

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こうやって高校時代のことを思い返していると、いかに当時が特別な時間だったかを思い知る。これから大学を卒業して、まだ見ぬ誰かと出会って、まだ知らない場所に行って、これまで重ねた時間の記憶が少しずつ書き換えられたとき、僕の周りにいる人たちと出会ったときの頃から、今のこの気持ちまで、ずっとずっと後になって、どんな風に覚えてるんだろう。願わくば、今、こうやってキーボードを打っているときも、忙しく働きながら遊んだ夏休みも、会わなくなった誰かと過ごした日々も、特別な時間だったように思っておいてほしい。その頃はUXのいい人間になれてるといいな。

 

PS

こないだ江ノ島に行ったとき、たくさんの写ルンですを持って行った。大人数で遊ぶ時は写るんですを何個も買って、数人に渡しておくと、満遍なく皆の写真が撮れるし、そこそこ青春っぽい雰囲気が増すので、オススメ。あと自分が撮ってない写真を現像するのもドキドキして楽しい。後輩から「青春っぽい写真ですね!」って言われて嬉しかった。何歳になっても今のこのエモさを忘れないでおきたい。

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