僕がブログを書く理由と無駄なものの尊さについて。

大学生になってから、9月はいつもそわそわする。自分の暦の感覚では「夏休みは8月31日まで」なのに、学校はまだ始まっていないからだ。ゲームのボーナスステージに突入したときに、そわそわする。そんな感じと言えば、適切だろうか。


この夏はたくさん働いた。WEBサービス作ったり、未来のことを考えたり、インタビューに行ったり、後輩に仕事を紹介したり、ライターをしたり、たくさんの仕事をした。

というか今もしているのだけれど。


そんなことをしていると「どうして就職先が決まったのに、そんなに働くの?」とたくさん聞かれた。一重に仕事しているのが楽しい。何かを生産していると、自己肯定力が沸くからだ。そして何の仕事でもそんな楽しい訳ではない。自分が面白いと思える仕事を振ってもらえているから、そんな風に思えるだけだ。事実、これまで働いてきて、楽しくなかった仕事など沢山ある。

 

 

もう一つの大きな理由が自分が仕事をすればするほど、十年後が不安で仕方なくなるからだ。その理由として、今の自分が面白い仕事を振ってもらえる大きな理由として、「今の自分が若い」という価値が背景にあるからだ。僕は「若い」という称号を今後、少しずつ消失していく。つまり、それは若さを失っていくことに備えて、他者に提供できる別の価値を用意しなければいけない、ということだ。果たして、これから自分はそういった価値を会得することが出来るのか。そういった不安が「若さ」を担保に仕事を繰り返すにつれて、増幅していくのである。これから変わっていかざるを得ない自分に不安を感じるのだ。でも人々は変化せざるを得ない。


物事は何でも気付いたときには既に手遅れということが多い。我々、人間は鈍感で、少しずつ変化していく物事に気づくのが苦手である。昔、脳を鍛えるアハ体験を訴える番組で写真の一部分が少しずつ変化していき、気付いた頃には全く違うものになっていても、出演者も視聴者の大勢も気付かないというコンテンツがあったことを覚えてるだろうか?まさしくああいったことは現実にもたくさんある。


昔の写真と見比べなければ、自分が如何に太ったのか気づくことは難しいし、久しぶりに家を訪れる友人がいなければ、如何に部屋が荒れたのかを認知することは難しいし、現実は少しずつ姿形を変えていき、気づいた頃には、過去に戻るには労力を必要とする段階やもう元には戻れない段階に達していることが多い。人間関係や自分の趣味嗜好だってそうだろう。


僕より先に一年早く就職した友達と半年ぶりに会う、なんてことがこの頃多い。研修を終えて落ち着き始めたり、僕も就活が終わったことが大きな理由だろう。久しぶりに会うと、彼や彼女らがこの半年で何が変わって何が変わってないかが目につく。同時に彼や彼女らから僕の何が変わったか変わってないかを聞くのが面白い。逆説的に上記の双方の変化に言及する会話は、自分や相手が他人の何を見るようになったかの変化でもあるように思えるからだ。自分では僕は社会性を獲得するにつれて、物語性への無条件な期待や自分の不器用さを肯定するところが少しずつ自分の中で消えていってるように思える。


最近知り合った人は僕が音楽イベントをやっていたことも、僕が童貞をこじらせたような呟きをしていたことも、インターネットが苦手だったことも知らない。


ずっと一緒にいて連続的に僕を見ている人と、久しぶりに会って断続的に僕を見る人と、今日今知り合った一点で僕を見る人と、それぞれの僕の見え方は違う。逆もまた然りで、僕から見える皆も僕以外の誰かから見える皆とは違う訳だ。


また、どうしたって自分以外の他人の全てを知ることは出来ない。これは何とも悔しいことだと思う。他人のブログを読んでいると、そのブログに書かれなかった日々の泡のことを想うし、他人の思い出を聞いてると、彼や彼女の思い出にならなかった日常のことを想うし、他人の家に入ると、その部屋で過ごしてきた年月やこれまでそこで行われてきたことを想う。人間の経験を全て記録や伝承することは不可能で、誰にも伝えられなかったことの方が多い。誰にも知られないまま消えていった誰かの思い出や気持ちはどこにいってしまうのだろう。


ところで僕は役に立たないものや無駄なものが好きだ。プレイヤーがないのにビデオテープを買い、情報としての鮮度は落ちきった何十年も前の雑誌を買い、空になった米袋にMacを入れて持ち歩いている。


もしかしたら、というかもしかしなくても、役に立たないし無駄かもしれないけど、そういうものをこれからも愛でていきたいからどうでもいい思いつきとか最近起きたこととかを皆に教えて欲しいし、聞いて欲しいと思う。そういったものを蓄積させていくことで、どんな見え方であったとしても、自分のことを少しでも理解して欲しいし、相手のことを少しでも理解したいな、と思う。

 

本来はここまでで文章を書き終わっていて、一度公開して、自分の好きな劇団の演劇の感想を読んでいた。四年前に開かれた、その演劇の感想にはこんなことが書いてあった。

死んだ妻は夫に「憶えていて」「忘れないで」と言い続けます。それに対して夫が「思い出せる限りの全てを、できる限り細かく、記述する」と答えたのには納得でした。私たちはどうしたって何でも忘れます。だから、主観が入ってしまうとはいえ、記述することが大事なんですよね。

久しぶりに会った友達に「どうしてブログをやっているの?」と聞かれたとき、うまく説明できなかったのだけど、その問いへの答えがまさにこれだな、と思った。僕らは何かを成したことを忘れないかもしれないけど、何を考えていたかなんてことはすぐに忘れてしまうから、それは無駄かもしれないけど、僕にとっては大事なものだから、いつでも思い出せるようにブログを書いているのだと思った。TwitterTumblrもなんでもSNSはそうだ。僕は自分のあらゆるものがアーカイヴ化されて、いつでも取り出し可能いなっていて欲しいのだ。ネットを使えば、どんな情報でも引き出せるようにしたいのだ。例え、それが一見すると、無駄なものであったとしても構わない。ただ、そうすることでしか僕らは「今」をただの「過去」にさせまいと、時間に抵抗することは出来ないのではないだろうか。物語を紡ぐことの価値はそこにあるのではないだろうか。そんなことを考えるに至った。

どうやら僕の物語への信頼みたいなものはまだ失われていないようだ。そして、あのときの「どうしてブログをやっているの?」という質問がなければ、その質問に答えることが出来ていれば、胸にひっかかっていなければ、僕はこんなことを思わず、ブログも書き換えなかったことを思えば、人生は不確実で、人生は無駄によって少しずつ動かされているのかもしれない。

 

 

写真は今年の夏の最後の花火。嬉しいことに僕以外は初対面の人ばかりが集まってくれた。ここでの出会いが誰かの未来を変えれば、僕は嬉しいのだけれど。 

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