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僕がシェアハウスでの四人暮らしをやめる、もとい自転車がバランスよく立っている理由は科学的に証明出来ない話

 コンビニでジャンプを立ち読みした帰りに近所の肉屋へ赴くと、昼飯時も過ぎたタイミングであったため、300円の焼きそばが200円で売っていた。昼飯を食い逃していたことに気付き、迷わず購入して帰宅。炬燵の上には誰かが置いて行った500mlの缶ビールがあった。そういう訳で僕は今、炬燵で焼きそばとビールを嗜みながら、この文章を打っている。月曜日の昼間とは思えない情景である。窓から差し込む陽光が気持ち良い。

 

 さて、このところ僕には書きたい、あるいは書かなければいけない文章が沢山あったのだけれども、その文章全てが一向に進まなかった。自分の人生においておそらくは文節点となるかもしれなかった試練に挑戦するための文章の締め切りも等に過ぎてしまった。新しいブログも2月頭から始めると言ったものの、全くインタビューの文字起こしやら編集やらが進んでいない。

何故か?

何よりも優先しておいて書いておきたいことへの考えがまとまなかったからである。

それが僕が高田馬場のシェアハウスでの四人暮らしが終わることである。

おそらく、だが間違いなく、四人が散り散りになり、それぞれの新しい暮らしが始まってしまったら書けないものがあるような気がして、早く書かないといけないという焦燥感に襲われてはいたのだが、全く考えがまとまらなかった。このカーテンがないせいで直射日光が差し込むリビングでしか、部屋干ししている大量の衣服がカーテンの代わりを果たしているおかげで日光が調節されている中でしか、誰かが置いていった未開封のキリンがある炬燵でしか、誰かが炬燵で寝やすいように毛布を敷いた座椅子でしか書けないものがあることは間違いない。それは一体何なのだろうか。一向に答えが出ず、ただただ時間だけが過ぎていく。同居人三人とこの家のことを話していても、その答えは出ない。この家であったことの思い出語りに終始してしまう。しかし、そんなものは正直言って、ただのノスタルジーに過ぎない。この家で話題に登ることの多いミュージシャンが「ノスタルジーは甘い郷愁であって、良い事の様になっているが、そもそもは遠征先の十字軍兵士が、殺戮に嫌気がさし、故郷を懐かしがって、闘わなく成ってしまうという、鬱病の一種だった」ということはラジオかブログで説明していたにも関わらず、現状書いて残しておくべきものが、語っておくべきことがそれでいいのか、いや違うだろう、という回路を経て、結局、答えは藪の中で見えないままだった。

 

 最早、書いておきたいことなどないのではないだろうか?と思った矢先、昨晩、一人で直近約100年間ほどでのリズムを利用したお笑いについてのネットの記事を観ていると、よく我が家に遊びに来ていた友達が久しぶりにやって来た。ちょうどオリエンタルラジオのネタを観ている最中でどことなく恥ずかしかった、そして彼とこの家について喋っていく中でぼんやりと書きたいもの、書いておくべきことが形成されていった。

 

という長ったらしい前置き、もとい遅筆の言い訳を終えて、本題に入っていこう。

 

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シェアハウスの解散が決まったその日だったか翌日だったかは忘れてしまったが、どちらにせよシェアハウスの解散が決まってすぐに解散するまでに何かしらのコンテンツを作ろうという話になった。最初に出たアイデアがネット上にアップするラジオという形態だった。もしかしたら、このラジオはやるかもしれないが、どうなるかは分からない。いくつものアイデアが思う浮かんでは実行されずに消えていった我が家のことである。結局のところ、何のコンテンツも作られずに尻切れトンボのような形で終わってしまう可能性でさえ全然あり得る。話を戻すと、そのラジオを作ると決まってすぐに僕は前口上を書いた。その前口上を以下に転載する。

あらゆるバンドがいつかは解散してしまうように、あらゆるレースにゴールがあるように、あらゆる物語に結末というものがあるように、あらゆる人生に死があるように、物事には終わりというものは付き物である。

得てして、そういった物事の終わりというものは突然やってくる。
そう、101本の映画を観る予定だった我々が9本目の映画を観終わった時点でシェアハウスを解散してしまう事態に陥ったように。
ではどうしてそういう終わり方になってしまったのだろうか。
四人の仲が不和に陥ったのか?金銭が尽きたのか?音楽性が違ってしまったのか?誰かが宗教に入信したのか?
誰かが逮捕されたのか?やりたいことはやりきったからか?それとも実は我々はシェアハウスなんてしておらず、全ては虚構であったのか。
その理由を明かす前に僕たちにはしなければいけないことがある。
そう、例えばだ。「めでたしめでたし」で始まる昔話があるだろうか?
結末を語るには、まず最初に「むかしむかしあるところに」から始めなければいけない。そうだろう?
ここからあなたの人生のうちの数十分間の聴覚をジャックさせていただきたい。
むかしむかし、とある若者四人がマンションのとある一室に住んでいたという至って普通の昔話に付き合っていただけると幸いである。

完璧なまでに僕たち(少なくとも僕)の心にはノスタルジーの甘い郷愁が満ちていたことが伝わる前口上である笑。何せ「これから昔話をするぞ!」と宣言しているのである笑。格好のいい文章の振りをしているが、スピリットとしては昭和はよかっただのインターネットが世の中をダメにしただの昔の自分は多くの女を抱いていただの喚いている老人連中と大差ない。

 

終わる日にちは決まってはいるが、僕らはあとほんの少しの間だけ、このシェアハウスで四人暮らしを続けるは確かなのだから、冷静になって考えてみれば「これから」という時間も少なからず残されている。何故、そのことに目を向けなかったのか。相当参っていたんだろう笑。もう分かると思うのだが、今、僕が書いて残しておくべきことなのは終わることが決まってからのこの家の様子であるはずなのだ。「思い出語りであることには違いねーじゃないか」と言われたら、そんな気もするが、過去を振り返るのではなく、もっと現在に寄り添った近いことを書いておく。

 

 終わることが決まって、この家の何が変わったのか。

まず何より最初に思い浮かぶことが、いつまでも続くに思えた楽しげな雰囲気がどこか寂しげな雰囲気に変わってしまったことではないだろうか。

このシェアハウスでの生活を終わることは四人の誰もが意識していなかったため、保証もないのに心の中ではいつまでも続くものだと思っていた。だがしかし、その生活が終わる日がある夜、突然決まってしまった。そのことにより、無限だと思っていたものが有限になってしまい、無邪気に生活を楽しめなくなってしまったのだ。

そしてシェアハウスがなくなることで何とも思っていなかったが改めて気付いた事実がある。そもそもこの四人のコミュニティーそのものがシェアハウスという場所のみが繋いでいる、存外吹けば飛んでしまうようなコミュニティーだったのだ。もちろん個人個人で会うことはこれからもあるだろうが、四人揃って会うということはもう二度とないかもしれないのだ。またこのシェアハウスがなくなることによって、同居人の友人という形で会っていた、多くの人たちと会うこともこれからおそらくはなくなる。

つまり、自分たちが何気なく暮らしていた日々が実のところ、奇跡的な偶然の条件の重なりで成立していたことに改めて気付かされたのである。

ちょうど数週間前に僕はこのようなつぶやきをした。

「四人で暮らしていてよく喧嘩しないね、凄いね」って同居人が言われた話を聞いて、「そんなこともないだろー」と思ったけど、よくよく考えれば僕は大学に入ってから色々な人と衝突を繰り返した訳で、そう考えると案外、偶然のバランスなのかもしれないって自転車漕いでて思った

すると、同居人からこのようなリプライが返ってきたことがあった。

どうして自転車がバランスよく立っているのか科学的に証明出来ていないらしいよ

当時は「ふふっ」と笑って流したこのリプライであったが、この生活の本質を意外と突いていたように思える。

今まで話してきたことと同じような話をちょうどこのぐらいの季節に僕はこれまで何度も聞いたことがる。これまで小学校、中学校、高校と卒業していくときに話していたこと、また終活によって自分が何気なく過ごしていた青春というものが残り一年というタイムリミット付きであることに気付いた人たちが話していることと殆ど一緒のように思えるのだ。

日々の偶然性に気付いた以上はこれまで以上に日々を噛み締めていくしか我々は出来ない。噛み締める日々の味はほろ苦いものかもしれない。だが容赦なく過ぎていく時間の前にそうするしか方法は残されていないのである。

 

過去を振り返るのもいいが、何かしらの期限付きの日々を送っている人は今現在をじっくり噛み締めて味わっていこうじゃないか。それが月曜日に必ずジャンプの感想を言い合うといった小さなことだとしても。

 

書いてみると当たり前のことしか言えなかった・・・これが本当に書いておくべきだったことなのか甚だ疑問である・・・解散までに納得行く結論を出したい・・・

ps

宇野常寛氏の講演がログミーに書き起こされていた。以下は宇野常寛氏が語るカルチャーが生まれるための2つの条件についての抜粋である。

まず1つはですね。それは過剰なコミュニケーションが起こることですね。人々は濃密なコミュニティ、ただ単に閑散としては意味がないんです。ただ人がいるだけだと、そこから文化は絶対に生まれない。で、朝まで議論するとかね。ときには喧嘩するとかね。そういったことがあって初めて文化は生まれていくんですね。マッシュアップとか、そういったものが生まれていかないと、文化って生まれないんです。

そのためには、やっぱり似たような人ばっかりを集めていても駄目なんですね。同じようなキャラクター、同じような性格の同世代ばかりが集まっていてもちょっと弱い。そこにはやはり北海道にいる奴とか沖縄にいる奴とか、あるいは外国にいる人間とか。

ちょっとね、ぶつかり合いとかで、まったく触れ合わない。普段だったらまったく触れ合わないようなね。もし同じアニメが好きじゃなかったら、もし同じスニーカーが好きじゃなかったら絶対に会話が成立しないような、普段触れ合わないような人達が同じものが好きだっていうことでね。触れ合う空間が初めて文化を生んでいくんです。

僕はこの文章を読んで、我がシェアハウスのことを思わずにはいられなかった。喧嘩こそなかったものの朝までの議論は毎日のように行われていた。そしてその場にいる人々も基本は四人だったものの時折、四人の誰か友達が入ることによって普段触れ合わない人間同士がこの場所という共通項を持って触れ合っていたからだ。正直、このままこういった場を失ってしまうことは悔しい。だからこそ次も別の人間とシェアハウスしようと目下物件を下見中なのだが、何かしらいいアイデアがあれば連絡ください。僕は基本的にどこでも住めます。