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11月第1週

月曜日

早慶戦の関係で大学がお休みに。

不意に湧いた休日であったが、特に何をする訳でもなくダラダラと時間を浪費する。

法政の学祭で友達がイベントをやっていたので遊びに行く。

 D.A.Nと吉田ヨウヘイグループのライヴを観る。

どちらも素晴らしいライヴパフォーマンスだった。


吉田ヨウヘイgroup - ブールヴァード - YouTube

サークルでしかこういったお金のかかったイベントをデカいところでやることは基本的には出来ない訳で(まぁ僕ががんばれば出来ないこともないのだが)、サークルに入ったほうが出来ることにも広がりがあったかしら、と思う。この学祭シーズンは自分の友だちが学祭で何かしら大きな役割を果たすことがあったので、よりそう感じた。

 

家に帰って、ペーパーボーイ 真夏の引力を観る。

激烈な映画だった。ザック・エフロンが死刑囚と婚約したニコール・キッドマン演じるアバズレに恋する映画なのだが、単純な彼のひと夏の青春の物語ではこの映画は終わらない。ニコール・キッドマンザック・エフロンに小便をぶっかけるシーン、ニコール・キッドマンが死刑囚との面会中に人前で自慰をするシーン、黒人に犯されるドマゾのマシュー・マコノヒー、強烈なシーンがいくつも出てくる。オチも全くスカッとしない、ジメジメしたどうしようもない空気で充満したまま終わっていく。しかし存外、人生とはそんな瞬間がいくつもあるのではないかと思う。セックスや食事や運動、そもそも生きることに本来的に備わるジトジトした感覚、人生のままならなさ、そういった普段の生活で見えない、見たくない、生きるということから発せられる腐臭が封じ込められてる映像だった。みたいな言葉ではこの映画を捉えられている気がしないのだが・・・僕の考えが追いつかない。


映画『ペーパーボーイ 真夏の引力』予告編 - YouTube

 

そんな後味悪さを払拭させるために、ごめんね青春の第四話も観る。

今回のエピソードの出来はものすごく、観終わってから何人かの友人に LINEでごめんね青春の四話についての僕の熱量を送ったのだが、誰も観ていないとのことで、全員に「くそがあああああああ」と送り返した。なんの気なしに観始めたこのドラマだが、これはすごい作品になるかもしれない。第四話でこんなに面白くて、これからどうなってしまうのだろうか。満島ひかりに関して何の感情も抱いていなかった俺がアホだったという気持ちしかない。

ドラマの設定としてはこのドラマは非常にベタな話だ。真逆の2つの存在がどのように関わり、変化していくかという話である。男子校と女子校、仏教とキリスト教、決断力がなく、失恋を引きずる男性教諭と決断力の塊のような、恋をしたことがない女性教諭、冴えない男と美人といった具合だ。こういったお互いの世界にこれまで存在し得なかった他者と関わることにより変化していくというのがこのドラマの根幹を成す部分である。これまでのエピソードで平助が男子に対し拒否反応を示す女子に対して、女子に対して苦手意識を抱く男子に対して、相互理解の尊さを説く場面がいくつもあったことからも、このドラmが相互理解からの変化を描きたいのは明白である。そしてこれまでは徐々に近づくという形でしか相互理解は描かれていなかった。丁寧に時間をかけて描いていくのかと僕は思っていたのだが、そのスピードがここに来てギアを数段上げてきたのだ。その真逆の他者というものを理解する際に「そんなチマチマやってらんえーよと、そんな距離を最短スピードで飛び越えていこうよ」と言わんばかりに今回のエピソードでは論理からの飛躍が提示されるのである。その論理からの飛躍のために重要な役割を果たすのが恋愛感情だ。

そういったものが蜂矢先生がこのエピソードのラストで語るセリフに現れている。

好きにならなきゃ、好きな理由はわからない。

だったら、直感を信じてみませんか?

理想と違うからとか、条件があわないからとか、時間の無駄。

人生は一度きりなんです!ガッツいていこー!

 この論理からの飛躍した恋愛観!思想や論理よりまずは実践から始まり、そこから思想をあとづけしていく。その疾走感たるや、一切の鎖に縛られず、感じたことを実践していく、これぞまさしく青春の煌きではないか、と感動してしまった。いきなりのトップギア。このドラマはこれからどんな景色を僕に見せてくれるのであろうか・・・。 

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火曜日

この日も早慶戦の関係で一限以降が休みに。

しかし一限はあったり、インターンがあったり、ゼミ説があったりでなんやかんや忙しかった。家に帰って何をする訳でもなく、疲れて寝てしまった。受けたいゼミがひとつ決まり、ユースカルチャーと都市の相互影響を都市社会学の視点から研究する計画書を書かねばならないことになる。また読まなきゃいけない本と書かなきゃいけない文章が増える。とりあえず参考文献やら先行研究を集めないと。

 

水曜日

インターンの業務が終わらずに残って仕事をする。結局、終わりが見えなかったので翌日に持ち越して渋谷へ。初めて仕事が帰宅する時間までに終わらなかったが、任せてもらう仕事が増えたというより、いつまでも僕の仕事の効率が悪いことが原因だと思われる。もっと効率よく業務を進めたい。

ユーロスペースでギョーム・ブラックの女っ気なしを観る。

主演のヴァンサン・マケーニュは「オタク」としかいいようのない冴えない服装で冴えない毎日を送っているのだが、観光客として訪れた美人の母と娘の親子の世話をする数日間の中で彼の日常の風景に色彩が備わっていくのがこの映画のストーリーである。その表現として最も効果的に役目を果たしていたのが主人公の彼が着ている服装の変化だ。前述したように彼は冴えない服装で暮らしているのだが、劇中で美人親子の勧めによりポロシャツを購入する。黒いダサいTシャツ(女っ気なしと同時上映される監督の前作の短編「遭難者」でもその服は「くさいTシャツ」として言及されている)が最終的には赤いポロシャツにまで変化するのである。観光客であるが故に彼女たちは数日間の後に彼の元を去っていってしまうのだが、それでも彼のもとには色彩豊かな数日間は何かを残してくれたのではないだろうか、と僕は思った。単なる一夜限りのセックスでも過ぎていく事象としてではなく、彼の日常を少しだけ変える装置としては機能したのではないだろうか、希望の持てるラストであった僕は思った。服装だけでなく、後半にかけて美しいカットが明らかに増えていったのも印象的だった。監督の次作である「やさしい人」も現在公開中であるので早く観に行かねば。この作品では失恋がもたらす何かまで描かれていることは間違いない予告編だ。変わらず主演のヴァンサン・マケーニュは失恋から何を手に入れるのだろうか。


映画『女っ気なし』予告編 - YouTube

 


フランス映画『やさしい人』予告編 - YouTube

 

木曜日

この日も朝からインターンの仕事をしていたのだが、昨日とはうってかわっての仕事の少なさで、午後の業務がなくなり、前期に受けていた映画の授業に潜って久しぶり」に受講。トリュフォーアデルの恋の物語を授業で観たのだが、疲れていたためか眠ってしまった。

リチャード・レスターの不思議な世界を観る。

町山智浩がトラウマ映画で紹介していた映画である。端的に言うと、つまらなかった。早く終わらないかと思いながら観ていた。映画のリズムが僕の身体に合わなかった。ミサイル爆撃によって、ものの数分で終わった第三次世界大戦、僅かな人々しか生き残っていないイギリスで展開されていくのがこの映画であるのだが、残った人々は頭がどうかした人々ばかりでひたすらにシュールな物語が続く。老貴族は家になってしまうし、老婦人は家具になってしまうし、郵便配達員は手紙のかわりにパイをぶつけて去っていくし、ニュースはテレビの枠におじさんが顔を入れることによって報道される。自分で書いててなんのことやら・・・といった話である。そういったひたすらにシュールな登場人物たちが奇妙奇天烈な行動をしていくのである。モンティー・パイソンはこの映画に影響を受けたようで、あぁなるほど同じような匂いがするなとは思った。


The Bed Sitting Room 1969 Rita Tushingham ...

 

金曜日

昼に同居人と別の同居人の京都の友人と三人で昼飯を食べる。

日本において人口の少ない若者はマーケットとして意識されることが少なく、コンテンツなりサービスなりが若者に向けて作られることが少ないのではないか?そういった意識されてなさが我々若者の自信のなさに繋がっているのではないか?という仮説を聞く。しかし僕的には果たしてそうだろうか?そんなことはないんじゃないか?という気持ちが強く残る。我々は充足したコンテンツの中に生きているのではないか?・・・・とこの話題について書きたいことは沢山あったのだが、長くなるのでカット。またどこかでこのことは書く。

話題は変わり、一度しか会ったことのない東京の女の子に恋をしているその京都の彼の恋愛に。「ごめんね青春」の第四話を例に出しながら、自分の自信のなさとか遠距離恋愛とかそんなものは関係ないとひたすらに彼の恋が前進するように二人で説得する。着信履歴を残すという少しばかりの前進前進してんのか?)をし、ラーメン屋を後にする。「ごめんね青春の文学性に動かされたね、心が」と高田馬場駅で笑顔で言う彼を見て、いい気分で大学へ。珍しく大学でテンション高いので友人知人に驚かれる。

放課後は昨日の映画がつまらなかったのもあって間違いなく面白い、のめりこめる映画が観たかったのでグッドフェローズを観た。

こんなのは死ぬほど言われてることだがスコセッシ作品でいえば、カジノやウルフオブウォールストリートのような映画のプロトタイプとなったような一作であった。またジャージー・ボーイズにも似たようなものがあるか。ラストで主人公たちがヘリから逃げている最中に煮込まれるトマトソース、刑務所で作られるステーキ、観ていてお腹が減った。飯が美味しそうに撮られている映画はだいたい面白い。


Goodfellas - Trailer - (1990) - HQ - YouTube

 

土曜日

一限に出た後、天気が悪く外に出る気が起こらず、図書館でひたすらに調べ物や読書や課題や仕事などを進める。座るのに飽きてからは渋谷に出て、読まなきゃいけない本やら服やらを買い帰宅。androidnの渋谷の街頭広告に「みんなちがうから、世界はたのしい」「ひとりひとりちがうボクたちがつながり生きていく」「いろんなキミがいるから、この世界は面白くて素晴らしい」などのベタな標語が並んでいたのだが、なんだか少し感動してしまった。レッドブルミュージックアカデミーのときといい、渋谷の街頭広告がカッコイイと感動してしまう。街頭広告が街を歩くのを楽しくしてくれるようにネット広告も単にウザい広告としてではなく、ネットサーフィンを楽しくしてくれるものにならないかと思う。まぁそれがネイティブ広告なんだろうが。

家に帰って、androidの広告について調べてみたら、同じ言葉をキャッチコピーにCMもつくられていた。


Android:みんなの and - YouTube

映像もさることながら、あまりに音楽がよかったので調べてみたらリップスライムの Dj fumiyaが作っているとのことであった。 dj fumiya といえば、あまり知られていない気がするけど鎮座ドープネスと作った曲のPVが好き。


DJ Fumiya - JYANAI? feat. 鎮座DOPENESS - YouTube

そういえばandroidのCMよりももっとほっこりした形でfacebookもCM出していた。

ここまで「つながる」「つながる」「つながる」が強調される社会になってくると、やはり「つながらない」というところに価値がいい加減生まれてくるのではないか、と思う。 twitterがつまらなくなった、次の SNS を求むみたいな話をこのところよく聞くが、 SNS自体がナンセンスだと思うのもそういったところがある。もうSNSは僕達の制御できるものじゃなくなった。使っているんじゃなくて使わされている気がする。先日のハロウィンで SNSに対してのイメージが変わったのもある。これまで SNSによってシェアされる経済効果のことを、シェアによる広告効果だと認識していた。けれど、今回のハロウィンのそれはシェアすることを前提において皆が仮装の購買に勤しんでいることを思うと、シェアするための消費ってのも存在するなーと思ったのである。まぁこのへんに関しては、まだ僕の思索が足りないので、引き続き考えたい。シェアするための消費への動線ももっとうまいこと引ける気がする。

帰宅してからは高野豆腐を同居人が作っているのを眺めて、分けてもらう。美味しい。

この日は価値の交換について考えていた。

そのきっかけとなったのはtwitterで流れ行くタイムラインを眺めていたときに、たまにイラッとするリツイートが紛れ込んでいたことだ。なぜイラッとしたのか。それは友人のリツイートがおそらくは最近知った文化的なことに関して訳知り顔でリツイートしているように感じてしまったことだ。そのリツイートに関して、僕はそれはお前がキュレーションしている意味なんてねぇよと思ってしまった。キュレーションという言葉に関して、勘違いしている人間がこのところ多いように思える。学生にソーシャルインフルエンサーになるように、ありがたいお話とやらで話している人を見るたびに疑問符も沸く。

勘違いされているのではないか?と思う点はキュレーション/インフルエンサーというのは、ただ闇雲に情報発信すればいいと捉えられていると思う点だ。それでは何かしらの価値がある情報を発信して、その価値をセルフブランディングに利用しているだけに過ぎない。それは本来的なキュレーションとは全く意味合いが違う。キュレーションとは自分が情報を集めて発信することによって、その情報元に何かしらの価値を提供しなければならない。そういった付加価値をつけることの出来ない情報発信はただ単に五月蝿いだけだ。情報の取捨選択に自分の付加価値をつけることや、自分の価値とは一体何なのだろうかとうところをもう一度考え直した方がいいのではないだろうか。それは学生が作っている雑誌などにも感じることだが・・・取材相手にどういった価値を自分たちが提供出来るのか考えるべきであると思うのだ。何かを成すことが優先されすぎていて、価値の交換という点が抜け落ちすぎではないだろうか。これはブーメランでもあり、自分がやっているイベントで出演者にどういった価値を提供できるのかもしっかりと考えるべきであるな、と思う。

 

日曜日

朝まで話し込んでいたのもあって、昼過ぎにダラダラと起床。 課題を進めたり、読まなきゃいけない本を読んだり、一日中家の中で過ごす。クラブエイジアのスピンコースターのイベントも行きたかったし、観たい映画もあったのだが、抱えている作業のことを思うと致し方ない。11月は週末はこのように過ぎていきそうだ。 ECD素人の乱に参加していた頃に文化と政治の本はたくさん出ているし、語られてもいるのだが、そこから目立った動きもないせいか文化と政治について語られなくなっているように思う。昔より文化側の人間が政治について言及することについて抵抗感がなくなってきた。


ECD "言うこと聞くよな奴らじゃないぞ" @高円寺駅前 2007.4.15 - YouTube