フィクションのキャラクターの本棚

 ガイナックス初期のSF作品『トップをねらえ!』を見てたら、主人公の机にヴォネガットの『ローズウォータさん あなたに神のお恵みを』があって、ヴォネガット好きとしては「おっ!」となった。

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 その描写を見て、「フィクションに出て来る登場人物の本棚まとまってるサイトとかないかなー」と呟いたら、フォロワーの方々がリンクを送ってくれた。

 

新海誠言の葉の庭』に出てくる本について

shiomilp.hateblo.jp

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 こうした風にキャラクターのことを本棚の描写で語ったり、演出したりされているのは架空のキャラクターの人生の一端を覗いているようで、面白い。一時期、本棚にハマって、いろんな人の家の本棚の写真を撮影して居たことを思い出した。

 

 アニメ/実写問わず、他にも優れた本棚描写がある作品があれば、教えてくださると嬉しいです。

自己表現とかくそったれ、んな暇あるならMAKE PARTY

  僕は自己表現という言葉が嫌いだ。

 嫌いになったきっかけは高校生の頃に聴いた一曲の曲だ。それが大阪のトラックメイカーであるokadadaがMaltine Recordsからリリースした「D is for DANCE」というアルバムの一曲目、「intro (F.A.L.D.)」だ。この曲では「自己表現とかくそったれ/んな暇あるならMAKE PARTY」という声が何度もリフレインする。当時、誰にも届くことのないような、自己満足のためにSNSで音楽を批評しているような人が増えている様を見て、違和感を感じていた自分にはこの言葉はとても刺さった。
 確かに精神を安定させる上では「自己満足」も大事かもしれない、けれど、読者不在の、自己満足のためだけの、自己表現は単なる自慰行為に過ぎないのではないか、それは時間を割くべき対象として正しいのだろうか?それなら他人や社会に何かしらの影響を及ぼすことにチャレンジした方がいいのではないだろうか?と思ったのだ。

 

そのことを思い出す出来事が先日あった。それは「自分が考えていたアイデアを他人が先に実現してしまって悔しい」という話を聞いたときだ。その話を聞いたときに僕は「カスタマーからすれば、そのアイデアによって課題解決されることが大事であって、誰がそのアイデアを実現したかどうかなんて、どうでもいいんだよなー」と思ったのだ。むしろ、他人が実現したことでカスタマーの課題が解決されたため喜ぶというリアクションさえ考えられるのではないか、と思った。

 もちろん、これはある種の極論で、多くの企業が成長していくために熾烈な競争をしている中で、このようなのほほんとした平和論では立ち向かう事は出来ないだろう。しかし、そうした企業が戦っていく上で下している意思決定は「自己満足や自己表現のためのもの」ではなく「勝つためのもの」であろう。僕は件の「アイデアを他人が実現してしまって悔しい話」を聞いて、そのモチベーションは「勝つための戦略」ではなく、「自己表現や自己満足」であるように感じてしまったのだ。どうやってその2つを切り分けるかにはもっと考える必要があるけれど。

 だが、そもそも人間は自己満足や自己表現のために仕事をしてしまいがちなのではないか、とも思う。それは単純にそうやって仕事をした方が自己肯定感が上がり、気持ちいいからだ。だが、そうやって仕事をするのは、仕事の成果を受け取る相手にも一緒に仕事をする相手にも失礼だと思う。カスタマー不在のコミュニケーション、デザイン、アイデア。それではビジネスではなく、アートだ。
 とは言ってみたものの、自分自身、自己表現や自己満足に囚われてしまいがちな性格だ。読む人のことを考えているつもりだけど、このブログだって、そう言った類のものかもしれない。だからこそ、「自己満足や自己表現のために仕事をしていないか?」「カスタマーや社会の課題解決のために仕事が出来ているか?」と自分には何度も問い続ける必要がある。

 最近、狂った起業家の「他人が聞いても真似しようと思わない狂ったアイデアを信じ抜ける力」そして「そのアイデアをやり遂げる実行力」はどこから湧いてくるのだろうか、と考えている。様々な本を読んだり、話を聞いて立った仮説は、おそらくそのモチベーションは「自己表現や自己満足」ではなく、「社会はこうあるべき、人々はこういう風に生きるべきということを信じ抜ける強固なヴィジョン」なのではないだろうか?というものだ。そんな風に「カスタマーや社会の課題解決のために仕事が出来ているか?」と問い直さずとも、カスタマーや社会の課題解決のために生きれる、大きなヴィジョンを持った人間に私もなりたい。自己表現とかくそったれ、んな暇あるならMAKE PARTYだ。

 

 

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週末は雑誌の表紙を撮影し回っている。

 この頃、野暮用で毎週末、様々な家にお邪魔し、その家にある雑誌の表紙と目次を撮影している。それが目的ではないんだけど、いろんな人の家の本棚を見て、雑誌の思い出を聞いて回るのは楽しい。

 

 そんな訳で、雑誌をたくさん持っている人は撮影しに行かせてもらえると凄く嬉しい。ついでに思い出を聞かせてもらえると、もっと嬉しいです。何でこんな酔狂なことをやってるかは、もう少ししたら世に公開する予定。

 

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いつのまにか世の中のブログはHow to記事と意見表明の記事ばっかり。

 雨の中、引越しに関わる事務作業をやっていたら疲れてしまい、気づいたら寝てしまっていた。起きてから入った風呂の中で「自分はどういう大人になりたかったけ?」と思い返すために、高校時代に読んでた、当時の東京の若手社会人や大学生のブログを読み返していた。

 

 もう5年以上前のブログの記事にはたくさん写真が載っていて、その日にあったことや考えたことが雑にまとめれていた。そういえば、いつからかそんなブログを見かけることが減ったことに気づいた。気づいたら、世の中には役に立つHow to記事とSNSのポジション取りのための意見表明の記事ばっかりだ。

 

 そんなこんなで、これからもっとラフに自分の日々のよもやまをブログにしていこうと思った。storyに流すだけだと日々を記録に残せないから、もっと人の写真を撮りたいし。

 

 写真は友達の家で見かけたレム・コールハースが作った雑誌みたいなデザインの本。中身がふざけていて面白かった。その話を別の友達にしたら、「磯崎新中二病的なところがあるけど、一方、レム・コールハースはお茶目でいいよね」って言われて、なんだか納得するところがある印象論だと思った。

 

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ブログの文章なんて、昔はこれぐらいラフなものだったと思うのだけれど、いつから今みたいになってしまったのかなぁ。

社会人になって一年経ったので、振り返ってみた。

 社会人一年目は人生で一番悩んだし、自分の考え方が一番変わった一年間だった。

 

 めいいっぱい楽しんだ大学生活と違って、楽しいと思える瞬間は社会人生活は全然なかった。

「会社の仕事も面白くて、副業も順調で、週末は楽しんで・・・」みたいな理想像からは程遠い一年間だった。会社の仕事は全然楽しくないし、会社の仕事で忙しいのに副業の仕事の締め切りも近いし、断れないし、週末はそんな毎日から逃げるように遊んでたせいでまとまった時間を取って、勉強することもできなかった。

そして会社に入ってから、この一年間でスキル面における成長は全然なかったと思う。アプリのデザインからテレアポまでやって、自分は何の仕事をしてる人なのか、よく分からない一年間だった。

 

 でも、そういったしんどい経験のおかげで良いことがあった。しんどい状況を乗り切るためには自己分析をして、何故、自分はしんどいと感じてしまうのかについて考える必要があった。そうすることで、自分の性格のダメなところに向き合うことができた。

 24歳にしてようやく自己認知したのだが、自分はコンフォートゾーンの外に出ることが苦手で、自分と話が通じる人としか話したくなくて、人のアドバイスを素直に受け取ることができない頑固で偏屈な人間なのだ。こういった性格を把握することが出来たから、自分の苦手なことにも取り組めるようになり、自分と価値観が違う人と話すためにはどう話せば良いか考えるようになり、人のアドバイスに耳を傾けようと思えるようになった。他にも大嫌いだったノートを使って物事を考えることもするようになったし、すごい苦手だった一日一日の振り返りにハマったりしたり、書き切れないぐらい性格や行動の変化があった。

そして、これまでの何事にも代えがたい大事なことだったし、評価されることが多かった、自分自身の「こだわり」やその「こだわり」にまつわる成功体験も捨てることが出来た。上記で挙げたように、社会人として不完全な自分の「こだわり」なんて無価値であると思えたのだ。そのおかげで、自分がこだわりたいことよりも、事業として優先すべきことに取り組もうと思えるようになった。(自分がこだわりたいことと事業として優先すべきことが一致してるのが理想なんだけど、そうすることは自分には出来なかった)

 

 もちろんまだまだ直せていない欠点も沢山あって、例えば自分は過度に自分を過小評価してしまう傾向にあるのだが、それを直せていない。この傾向を具体的に説明すると、自分は大きな効果を出したものだけ成功した仕事と捉え、それ以外は全て失敗したと捉えてしまうというものだ。しかし、仕事はそんな「成功」「失敗」の2つに分けれるものではない。少なくともせめて「成功」「ちょっとした成功」「普通」「ちょっとした失敗」「失敗」の5つのグラデーションの評価軸ぐらいは用意するべきだろう。他にも自分の提案が否定されると自分自身が否定されてしまったように感じるなど、直せていない欠点は数え切れないくらいある。今年は直せるように頑張る。

 

 この一年間、友達や同居人に「リッキーに今の会社は合ってないんじゃないか?」と何十回も言われた。実際、自分でもそうだと思うし、入社する前からそう思ってた。ただ自分がコンフォートゾーンから抜け出したくない性格だし、社会の王道のような価値観の人と話すことが苦手だと知っていたから、あえて合ってない環境を選んだ。仕事において「自分に合ってる」とか「楽しい」とかも重要な要素だと思うが、「自分が成長する環境はどういった環境であるか?」と考えると、「自分に合ってる」とか「楽しい」とかはもしかしたら重要な要素ではなくなることもあるのではないか?と思う。自分に合ってないし、楽しくないし、SNSで見かけるようなキラキラした社会人生活は送れない一年だったが、自分の考え方がとてつもなく変わって成長できたと思える、良い一年だった。

 

 とりあえず最近久しぶりに会った人に「太ったねー」と言われるのが嫌だし、これまでの自分では絶対にやらなかったであろうことに取り組むことが今年の目標なので、ジムに登録した。社会人二年目は一年目より成果に拘って、痩せる一年にしてみせる。この一年の途中、いつでも振り返れるようにブログに書く。

 自分は天才でも優秀でもイケメンでもないので、泥臭く頑張る。

 

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美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。

GWに朝ごはんを食べに訪れた、友達ん家の屋上から見える景色が爽快だった。

そんな訳で「On the roof」という名のホームパーティーを小規模ながら屋上で開いてみた。
初めて屋上でパーティーをしたけれど、「ぼんやりとした話をするのに屋上は向いているなー」とか「屋上で大音量で鳴る音は爽快だなー」とか色々と発見が会った。

一軒家で24時間レイヴをしたり、クラブでイベントを開いたり、色々なパーティーを催して来たけれど、いつも人がたくさん集まって動いている様子を観察していると、たくさんの発見がある。どんな料理を食べるか、どんな曲が流れるか、どんな景色か、どんな人がいるか、どんな会話をするかなどなどの数え切れないほど、沢山の刺激を個人が受け取ることにより、パーティーの雰囲気は決まっていく。どんな刺激と刺激が組み合わされば、人々はどういう風に動くのか、どんな感情を抱くのか、少しずつ学んでいくことは、人間がどういう生き物なのかを学んでいくことなんじゃないかな、と少しだけ思う。

そういえば、今回はこれまで開いたパーティーの中ではあまり聞くことのなかった「チル」という単語を沢山聞いた。「僕がToro y Moiを聴いてた高校生だったとき、誰も「チル」なんて言葉を知らなかった。けれど、いつの間に「チル」って言葉はこんな市民権を得たんだろうか」と帰り道に考えていた。「チル」という言葉が普及する前に、若者って「チル」みたいなものを求めてたっけ。

どっかの社会学者に「あらかじめ全てを諦めている世代」とか僕らは言われていて、まぁ、それも分かるけど何かそんな簡単な言葉で僕らの気持ちは説明できないと思うんだよな、というかそもそも諦めている訳じゃないんだよな、とか前々から思っていたけれども、なんだかその違和感の鍵が「チル」という言葉の普及にあるんじゃないか、なんてことを考えていると、家に着いた。

パーティーはいつだって思いもよらぬ刺激を僕にくれて、思いもよらぬ考えに僕を至らせる。
パーティーを開いて、哲学する。そして、またパーティーを開く。
その繰り返しの中から解けるようになるものは何だろうか。

それにしても、美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。そのチルな魔法の秘密もいつか解き明かせるんだろうか。

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「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

 最近、読んだ本の中で一番面白かったのが栗原康さんの「死してなお踊れ」。鎌倉時代アナーキー坊主こと、踊り念仏を唱えた時宗の一遍の生涯を描いた一冊なんだが、超現代語訳で彼の人生が語られており、読めば一遍と極楽に往くまで踊りたくなる、何度でも。

「いくぜ極楽、なんどでも。一遍の踊り念仏にはそうおもわせてくれるなにかがある。きっとそれは、現代に生きるわたしたちにとってもだいじなことであるはずだ。とにかくはねろ。ピョンピョンはねろ。現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる」

「成仏するということは、逆むきの時間を生きるということだ壊してさわいで燃やしてあばれろ」

「アミダの力はすでにある、いつでもつかえ、もっともっと仏なんか信じなくてもいい、キレイもキタナイも関係ないね」

「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

などなどのパンチライン連発で音読せずにはいられない本でした。読んでるだけで速まる体内のBPM、頭の中で坊主も農民も武士も関係なく踊り出す、ソウルフルな文章が詰まってます。おすすめ!

 

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死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝