美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。

GWに朝ごはんを食べに訪れた、友達ん家の屋上から見える景色が爽快だった。

そんな訳で「On the roof」という名のホームパーティーを小規模ながら屋上で開いてみた。
初めて屋上でパーティーをしたけれど、「ぼんやりとした話をするのに屋上は向いているなー」とか「屋上で大音量で鳴る音は爽快だなー」とか色々と発見が会った。

一軒家で24時間レイヴをしたり、クラブでイベントを開いたり、色々なパーティーを催して来たけれど、いつも人がたくさん集まって動いている様子を観察していると、たくさんの発見がある。どんな料理を食べるか、どんな曲が流れるか、どんな景色か、どんな人がいるか、どんな会話をするかなどなどの数え切れないほど、沢山の刺激を個人が受け取ることにより、パーティーの雰囲気は決まっていく。どんな刺激と刺激が組み合わされば、人々はどういう風に動くのか、どんな感情を抱くのか、少しずつ学んでいくことは、人間がどういう生き物なのかを学んでいくことなんじゃないかな、と少しだけ思う。

そういえば、今回はこれまで開いたパーティーの中ではあまり聞くことのなかった「チル」という単語を沢山聞いた。「僕がToro y Moiを聴いてた高校生だったとき、誰も「チル」なんて言葉を知らなかった。けれど、いつの間に「チル」って言葉はこんな市民権を得たんだろうか」と帰り道に考えていた。「チル」という言葉が普及する前に、若者って「チル」みたいなものを求めてたっけ。

どっかの社会学者に「あらかじめ全てを諦めている世代」とか僕らは言われていて、まぁ、それも分かるけど何かそんな簡単な言葉で僕らの気持ちは説明できないと思うんだよな、というかそもそも諦めている訳じゃないんだよな、とか前々から思っていたけれども、なんだかその違和感の鍵が「チル」という言葉の普及にあるんじゃないか、なんてことを考えていると、家に着いた。

パーティーはいつだって思いもよらぬ刺激を僕にくれて、思いもよらぬ考えに僕を至らせる。
パーティーを開いて、哲学する。そして、またパーティーを開く。
その繰り返しの中から解けるようになるものは何だろうか。

それにしても、美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。そのチルな魔法の秘密もいつか解き明かせるんだろうか。

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「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

 最近、読んだ本の中で一番面白かったのが栗原康さんの「死してなお踊れ」。鎌倉時代アナーキー坊主こと、踊り念仏を唱えた時宗の一遍の生涯を描いた一冊なんだが、超現代語訳で彼の人生が語られており、読めば一遍と極楽に往くまで踊りたくなる、何度でも。

「いくぜ極楽、なんどでも。一遍の踊り念仏にはそうおもわせてくれるなにかがある。きっとそれは、現代に生きるわたしたちにとってもだいじなことであるはずだ。とにかくはねろ。ピョンピョンはねろ。現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる」

「成仏するということは、逆むきの時間を生きるということだ壊してさわいで燃やしてあばれろ」

「アミダの力はすでにある、いつでもつかえ、もっともっと仏なんか信じなくてもいい、キレイもキタナイも関係ないね」

「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

などなどのパンチライン連発で音読せずにはいられない本でした。読んでるだけで速まる体内のBPM、頭の中で坊主も農民も武士も関係なく踊り出す、ソウルフルな文章が詰まってます。おすすめ!

 

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死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

 

卒業式のためにスーツを買う理由。

 高校生の頃から、社会人の先輩各位がどうして花見や忘年会を催しているのか、不思議で仕方なかった。しかし、四年生になり、自分より先輩は働いてるし、同期や自分も就活やら院試やらで忙しくなって、その理由が分かった。人間は忙しくなると理由がないと会わないし、会えないのだ。そんな状況下で誰かに会うための理由として花見とか忘年会とかは便利なんだなーと気付いた。季節に紐づく会う理由は先延ばしに出来ないから、会うために日常のあれやこれやをどうにか片付けようと思うのである。

 

 なんだかんだ大学四年生の一年間は忙しく、僕自身、これまでの大学生活に比べて会う人は減った一年間であった。そんな一年間の最後の三ヶ月に定期的に友達と会う理由が毎週あった。その理由が先日、最終回を迎えることになった「カルテット」である。周りからの「見なきゃいけない!」という連絡により、四話目頃に一気見することで放送分に追いついたのだが、周りにカルテットを見てる友達が多かったこと、人と感想を語りたかったことから、カルテットを見てる友達のチャットグループを作成した。そのグループの中の人で集まれる人を毎週火曜日22時に我が家に集めて、カルテットを観る会を毎週行っていた。毎週毎週、僕以外は初対面の人間が集まり、ドラマを観て感想を交換し合う様子は愉快であった。テレビを見るために集まるという、テレビ創世記の街頭テレビの時代かのような状況を見て、「これが果たしてNetflixYouTubeであったら実現するのだろうか?」と不意に思った。恐らくは実現しないであろう。「いつでもどこでも観れる」という自由さは人を集めづらいだろう。ましてや僕以外は初対面の人間なんて集めることは難しいだろう。「カルテットを観る会」は火曜日22時から放映されるという決められた時間であったこと、そして四月には放送が終わってしまうこと、更には観てすぐに感想を話したいこと、それらの条件が揃ってたからこそ、成立した集まりなのである。季節に紐づく理由と同じく、この会もまた有限であり、時間が過ぎ去れば二度とは再現されないことがわざわざ集まる力になっていたのである。

 

 ともすれば、過ぎ去って行く何かには人を動かさせるエネルギーがあるのかもしれない、と思いながら、今日はスーツを買った。似合わないからスーツなんて大嫌いな自分が明日の卒業式で着るために青山まで出向いた。「卒業式なんて儀式的なものだし、大した面白い行事でもなかったね」と先日、卒業式を終えた友達がカルテットを観る会で話していたけれど、ほんとその通りなんだろう。だけども、大学生活も卒業式ももう二度と訪れない。もう誰かと肩を揃えて何かから卒業するなんてことすら二度とないかもしれない。そういった有限性、再現不可能性が自分にこの行動を喚起させるのだろう。つまりは何かが終わって行くことは寂しいことだが、終わっていくからこそ、何かに奮い立たされ、人生が回転していくのではないだろうか。
 
僕は世俗的で平板な社会に旅立つことにするよ。
青春よ、アデュー。

 

 

 

 

 

 でもやっぱり全然卒業したくねーーーーーー!!!!もっと勉強したいし遊びてーーーー!!!って本音では思う。

複製技術時代に失われたアウラと、データ通信時代に失われたアウラの差分とはなんぞや。

  同居人と昼飯の中華を食べながら、発展場として利用されている映画館って最初からそのような目的で作られたとは思えないし、どういう経緯でそのような使い方が根付いたんだろうか?と話していた。タクティカルアーバニズム然り、空間を作った人が想定していない空間の使い方を生活者が行う現象は興味が湧くので。

  同居人曰く「そもそも昔は映画館でいかがわしいことを行う人がもっといたのではないだろうか?」とのことだった。ドライブインシアターは車という密室で恋人といちゃつくのを主目的に作られた場所であるし、ポルノが日常に溢れかえった現代とは違って、映画館とテレビでしか映像を見なかった時代の人にとっては、ピンク映画や映画のエッチなシーンは現代に生きる我々からは想像できないほど、刺激的な代物だったのではないか、と考えれば、大人向けの映画館が情事に耽る場所として成立していてもおかしくないのでは?という考えがその仮説の論拠だ。(調べてないので実際のところはどうか分からない)

  その話を聞いて、VHSのドキュメンタリーを見たときに、VHSマニアたちが「中古VHSのおっぱいが出るシーンは必ずと言っていいほど、ノイズまみれなんだ。これまでの持ち主がそのシーンだけたくさん巻き戻しした痕跡がそうやって残ってるのさ」と話していたことを思い出した。インターネットでポルノが日常的になってしまった現代において、起こり得ない現象だろう。また思い出したことをきっかけに、VHSの持ち主が変わったとしても、テープのノイズという形でこれまでの持ち主の痕跡が残るのは改めて興味深い現象だなーと思った。

  振り返れば(めちゃくちゃ振り返るけど)20世紀初頭、機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になったことで、オリジナルの作品から「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする「アウラ」が失われると、ヴァルター・ベンヤミンは唱えた。しかし、21世紀初頭の現代において起きていることは、テクノロジーの発達において、芸術がモノを媒介とせず、web上のデータとして存在し、データのまま享受することが当たり前になる現象である。このことにより、芸術は、情報は、モノとして存在し得なくなり、唯一無二性のアウラだけでなく、存在としてのアウラを失った。

  前述の「おっぱいが出るシーンだけ何度も巻き戻されたため、ノイズまみれのVHS」のような存在はこの現象下では失われる。

  複製技術時代になることによって失われたアウラと、データ通信時代になることによって失われたアウラにはどのような差分があるんだろうか。誰かそんな本を書いてないなー。そういった文章を読んだことはあるけど、本のテーマとして書かれてるわけではなかったので、それをテーマに書き切った本が読みたいなーと思った。最近、読みたい本のテーマがどんどん思い浮かぶ。自分の中で適当に立てた仮説を立証しているような本ないかなーと思って探すのは楽しい。

「若者がインターネットを駆使して、世の中を変えてくぜ!」みたいな話ってすっかりなくなったよね。

 中国のビッグデータを活用したネット世論警報システムがすごい。微博(中国のTwitter)で反体制的な特定の用語の出現回数が頻出した場合、人々の注目を集める社会事件が起きた可能性があるとして、管理者に警報が伝えられるらしい。既に省庁や地方政府、大手企業がこういったシステムを導入しており、国民を統制するために利用されているのだとか。その警報システムの取り扱い能力を証明する国家資格「ネット世論分析師」なるものまで存在している。
他にもネット世論警報システムの多言語化も進んでおり、複数の少数民族言語の書き込みをリアルタイムで収集し、分析するシステムが存在する。ある特定の言語の書き込みが急増した場合、自動的に感知し、当局へと警告が届くのだとか。
 「そういった監視社会は間違っている!」みたいに思うほど、強い思想は持ち合わせていないが。「IT技術の発展はネット運動に有利に働く!」「Twitterや微博の情報拡散力は速すぎて検閲が追いつかない!」「これからはネット論壇だ!」とか言っていた、アラブの春が起きた2010年付近の言説が如何に楽天的な見立てだったかを痛感する事例だな〜と思った。

 

 その頃って他にも「海賊放送とかリミックス文化、ストリートアート、ナップスターLINUXみたいな既存のルールを無視した新しいパンクな活動がユースカルチャーから出てくることによって、これからの社会を変えていくぜ!」みたいな言説がたくさん言われてたし、僕もそういう風に世の中は変わっていくと信じてたんだよなー。ノスタルジーがそんな風に過去に魅力を感じさせるのかもしれないとも思うのだけれど、そのバイアスを差し引いても、2000年代後半〜2010年代前半は今から振り返れば、若者によって色々なものが牽引されていくような雰囲気があったように思える。

 

 2010年代後半もスナチャのような新しい形のSNSとか自撮りとか、新しい若者によるインターネット文化も生まれたけど、10年ぐらい前の「社会を変えてくぜ!」みたいなノリは感じないんだよなー。(良い悪いではなく、単純に感じない、という話)。


 雑なまとめ方をすると、2010年代後半になってスマホSNSを利用した生活がレイトマジョリティーにまで行き届いた結果、ユースカルチャーやカウンターカルチャーとインターネットが結びつきづらくなったからなのかな〜と思うけど、どうなんだろうか。「昔はよかったけど、今はだめだね」みたいな老害っぽい考えなのかも、と思いつつも、最近はそのようなことを考える。web記事じゃなくて、一冊の本にする話題として誰か検討してくれないかしら。英語の本ではありそうだけど。

 

 ※海賊のジレンマみたいな話はほんとに聞かなくなったよな・・・

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

  • 作者: マット・メイソン,玉川千絵子,鈴木沓子,鳴戸麻子,八田真行
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2012/07/23
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非実在犬の存在しないハートから溢れ出す愛。

最近読んだ、SF小説の主人公は非実在犬であるエドを飼っていたのだが、その犬を紹介するくだりが美しさの見事っぷり、にほとほと感心した。

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彼は自分が存在していないのとにさえ気付いていない。犬は、よだれにまみれた無条件の忠誠を主人公に捧げる、奇妙な存在論的実体にすぎないのだ。過剰にして無償の愛。エドは間違いなく何かの保存則を破っている。そこでは、無から何かが湧き出している。たとえばこのよだれが全部、そうして多分、愛なんかも。非実在犬の存在しないハートから溢れ出す愛。
``` 

非実在犬というSF設定の説明をしていながら、同時に愛が存在論的実体だという説明にもなっているのだ。なんて高度なメタファーなんだ、とページを捲る手が止まった。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと

 

 

 

もしも僕らの寿命が100年、200年、あるいは永遠になったら。

 何かのインタビューで女性のアーティストがこれからの結婚観について尋ねられていた。「人間の寿命が延びたときに、果たして同じ人と100年、200年一緒にいるのが合理的なのか?果たして永遠に生きられるようになったとき、永遠を誓うことは現実的な選択なのか?」と彼女は語っていてた。

 「この恋がいつの日にか 表彰台に登るとき 君がメダルを受け取ってくれないか 例えば千年 千年じゃ足りないか できるだけ長生きするから」と歌ったのはザ・ハイロウズだった。永遠の愛を誓う価値観もいつかは相対化されて、未来の僕たちには信じられない恋愛観のように思えるのかもしれない。結婚相手と一緒に過ごすことも、一つの国に住み続けることも永遠のような長い時間を生きることが可能になった未来では現実的でなくなったとしたら、自分が永遠と信じれる対象は自分の人生以外に何があるのだろうか。

 三島由紀夫金閣寺で描いた主人公は滅びの美しさを信じていた。「美しいもの」は本来ならば「存在しないもの」であり、端的に言えば「虚無」であると主人公は考える。「美しさ」に実体はなく、現実に存在する事物がそれ自体で「確固たる美」を所有することは出来ない。「永遠」に存在し続けるかのような金閣寺に、有限性を付与することで金閣寺は美しくなるのだ。そのために彼は金閣寺をラストシーンで燃やす。だとするならば、私たちは「永遠」を誓って有限に生きることと、いつかは全てが変わってしまうことを前提としながら永遠のように生きることではどちらが美しいのだろうか。果たして、人生における価値観すら相対化されることとなった世界で自分は何を選び取るのだろうか。