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STOP, LOOK, LISTEN/スマーフ男組

自分の趣味の一つにデータで買った曲なので歌詞カードがなく、更にググっても歌詞が分からない曲の歌詞を書き起こすというものがある。書き起こすために繰り返し聴いて、スマホやパソコンで打っていると、その曲や歌詞が身体化されていくように感じるのもあって、この行為自体をなかなか愛でている。今日はスマーフ男組というアーティストのSTOP, LOOK, LISTENという曲を書き起こした。何度聴いても、分からないところも沢山あるけれど、分からないままというのもそれはそれでありな気がする。めちゃくちゃ好きな曲なので、せっかくだからブログに残しておく。

 

YouTubeを再生しながら読んでもらえれば、と思う。


スマーフ男組 | STOP, LOOK, LISTEN

 

STOP, LOOK, LISTEN/スマーフ男組

 

朝起きて、コーヒーの換え置きがないことに気付く

酷く、くだらない

どうしても髪が跳ねる

セーターが気に入らない

肩こり、目薬、余暇とロック

 

太陽の日、ときどき雨の日

帽子を被って、帽子を脱ぐ

傘を忘れる

ウキウキしたり、風邪をひいたり

チーズを齧って、酔いつぶれたり

 

サッカーを観て、音楽を聴く

ときどき「ファック」と口にする

女の子はダイエットをする

男の子はセックスのことを考える

 

膝を抱えて、ニュースを見る

ときどき戦争が始まる

変わる、変わらない

 

腹を立て、途切れる

世界と途切れる

僕が途切れる

僕は途切れる、千切れる

揮発する物語、端から希釈されて

 

出来ないことがある

自信満々で、なのに

引き算が恨めしい

 

へし折れる

 

自分を踏み出せず、見る前に、飛べない

怯える

 

車に轢かれたシュークリームみたいに最低の気分

ベッドとソファの大きさの部屋

温かい、けれども苦い部屋

ゴミ箱に、山のようにビールの空き缶、山脈を築く

 

歩かず、走らず、笑わず、木も森も見ず、待つ

視野(?)に暮らし、やがて弛緩する

胸を沈殿する歌詞、混濁、混迷

錆びついてしまった僕の全盛

僕の鼻、僕のアゴ、僕のエゴ

 

消え入りそうで、とてもじゃない

夜に溶けたい、夜になりたい

午睡を終えたライオンのように克服できない恐怖

その刹那、昼が眠り込け、夜が目を覚ます時間、青い時間

 

コーヒーを飲もう、小銭を数えて、服と髪をコーデする

ドアをこじあける、鍵を開ける

盛大な爆発音

きっと開く

空気は

 

空気は

街の空気は

風は、肌をつたって、撫でて、泡立ち、波立って

どの軒先にもとりどりに花

 

伸長する道、路地

街が、僕に浸透する

僕が、街に浸透する、伸長する

 

世界が僕をあらしめる

だから、僕が、世界をあらしめる

世界と和解

 

世界と和解

 

レコードをやめて、世界を聴く

本を閉じて、世界を開く

テレビを消して、世界をつける

 

歩く、散歩、公園

葉の形、色、膨大な情報量

水面、驚きに満ちた波紋

 

太陽が祝福する

 

ベートーヴェンピアノソナタ、第30番、作品109

 

陽射しにトーストされたアスファルト

早朝のビデオレンタル屋で受けとるアイスチョコバー

乾燥機のミント

皿を洗って、またパスタを作る、安上がり

焼きトマト

ストライキ、おしまい

コロッケ、食べよう

 

のっきぴきならない、透き通るような場が

神様、呆れ果てるか

シュテルバウンド(?)な季節

神様と恋人に

 

あたらしい今日と僕のニューダイレクション

うちの店(?)

ワッチューシーイズ、ワッチュゲッタン、ディシップ(?)リブ

見るものが得るもの、見たものが得たもの

暮らしを暮らし、歩みを歩く、笑いを笑う、泣くときゃ泣く

僕の踊りを、踊ろう

 

何を今さら、必死に

やんぬるかな、禁止

ペシミズムとニヒリズムを置き去る

速度を走る、走らせる

 

ソーシャライズギッタン、社会化

帰ってきた、ここに

交われど、マジアレ太カヒRAW

唸る、八百屋のカウベル

虹のような気炎を上げ圧倒

ダンバイロウ

相棒はコンピューマとアキラ・ザ・マインド

スマーフ男組

 

f:id:rikky_psyche:20070828225143j:plain

 

ついでに件のアーティストであるスマーフ男組に関する情報はあまりネットに落ちていない。ただスマート男組のメンバーが書いた、彼らの結成からの物語に関するテキストはほうぼうで見かける。このテキストが僕はたまらなく好きでよく読み返す。自分の知らない歴史を知ることは楽しい。せっかくだから、そのテキストも転載しておく。

スマーフ男組は、好事家の目を白黒させ、また、じゃぶじゃぶ泳がせた音響派ユニット、短命に終わったアステロイド・デザート・ソングス(以下ADS*1)の活動休止をもって97年に結成、その七夕の夜に、勢いで命名された。

いや、記述に正確を期すのであれば、ADSは97年の12月8日に表参道の喫茶店で活動休止の結論へといたるミーティングをもったのだから、結果からいえば、ADSとスマーフ男組は半年かそこいらのあいだ並存したことになる。

また、スマーフ男組のルーツをさらに辿ってみるなら、それは、95年の12月14日に下北沢SlitsでおこなわれたギグにADSのメンバーであった高井康生(Ahh! Folly Jet)が出演できなくなったことから急ごしらえに準備された、M+M Production(*2)という2人組による出しものの、そのユニークな冒険に端を発したものだったことを頭にいれておいてもいいだろう。

 

スマーフ男組というネーミングには当初、「男組」を「男闘呼組」で表記しようや、という案もあったのだが、それはさすがにやりすぎだとマジアレは思いとどまった。そのことにいま、私たちは胸を撫でおろすほかない。

メンバーは、マジアレ太カヒRAW(村松誉啓,MCとたくさん担当)、コンピューマ(松永耕一,ターンテーブルとたくさん担当)、アキラ・ザ・マインド(高橋啓,鍵盤とたくさん担当*3)の3人。

「男組」の二文字にははじめ、あたかもPファンク・モブのように入れかわり立ちかわりメンバーを迎えいれる不定型のあつまり、ということが企図されていたが、幸か不幸か、現在にいたるまでこの3人のならびは不動のものとなっている。

3人は集まるとたいがい、缶ビールを開けながら、互いのウエストにひっついてくるようになった贅肉について意見を交わし、ゲラゲラ笑いあう。

ずうっと、そうだ。

 

それでは、スマーフ男組の履歴から目だったところを拾いあげてみることにしよう。

彼らはまず97年、ムードマン主宰のパーティー「低音不敗」(@西麻布クラブ・ジャマイカ)にレギュラー出演、これがオルタナティヴなマイアミベースのコンピレーション盤『KILLED BY BASS』への参加につながっている。

そこに収められた4曲が、スマーフ男組の処女レコーディングの成果となった。

『KILLED BY BASS』では、“八百屋”(ローランドのTR-808リズム・マシーン)のキックのディケイを伸長したサイン波の手前の音色によるWeird(奇妙)な「トルコ行進曲」、コンピューマによる斬新な、ヒップホップとマイアミベースと音響派との、うたう折衷案(“Basscillotron”)、オールドスクール・ヒップホップへの直截なオマージュ(“Phase 2: Roxy”)、失敗作ですってんころりんこけてるけれども、Pファンク・オールスターズのグルーヴを援用してものにしようとし、おまけにアキラ・ザ・マインドが犬を思う存分、鍵盤上に転げまわらせてみたもの(“Hydrauric Pump”)などが聴かれる。

 

ついで98年、彼らは、TPfX(ヒップホップ最高会議の千葉氏)、脱線3、荏開津広らと「エレクトロ・サミット」(@恵比寿みるく他)を企画、その大幅な発展形ともなったエレクトロ・ヒップホップのコンピレーション盤『ILL-CENTRIK FUNK VOL. 1』に“E・L・E・C・T・R・O 〜スマーフ男組の808 MYTH APPROACH〜”(*4)を提供。

また、同アルバムのリリース・ツアーでは、伝説のラメルジーといっしょのステージを踏むこととなった。

ADS時代からひき続き、このころまでに築かれてきた交友、そこから連なり拡げられた環境が、いまもかわらず、スマーフ男組の活動のバックグラウンドとなっている(もちろん、デイタイムに大手外資系CDショップでバイヤーをつとめるコンピューマのつちかってきた、ロス・アプソン山辺圭司らとの長きにわたる親密さなどがそこにふくまれることも……これはいうにおよばないが)。

 

さらに時期を前後し、スマーフ男組は三宿WEBにて月1のレギュラー・パーティー「スマーフ渚をわたる」を立ちあげ(*5)、以降も、DJ、ライヴ、数枚のコンピレーション盤への参加を経て、彼らのアイドル、アフリカ・バンバータとの対談などもこなしつつ(『エレ・キング』誌上)、現在、2003年の彼らは、5年越しの(だから労作、としかいいようのない)デビュー・アルバム『スマーフ男組の個性と発展』(*6)をやっつけんと、まい進中である。

 

ところで、2000年以降、ここで触れるべきトピックの数が限られてくるのは、彼らが、分をわきまえず「とにかくアルバムづくりに精進するため」として幾多のオファーを断ってきたからである。これは事実だ。

が、しかし。そう書いておけばすこしは聞こえがいいだろうかと私に余計な気をまわさせる状況に彼らが甘んじているのも、これまた事実といって相違ない。彼らがかつての相方、Ahh! Folly Jetの美しいアルバム、2000年にリリースされた『Abandoned Songs From The Limbo』に後塵を拝すること3年あまり、だ(以前、私がマジアレに『Abandoned Songs… 』のテスト盤のCD-Rを聴かせてもらったときに、その盤面にマジアレの手書きで、赤いフエルトペンででかでかと“負けないぞ!”と書いてあったことを思い返すと苦笑を禁じえなくなってくる)。

けれども、ここでは強調しておかなければならない。とにかく彼らは、たしかにときどき弱音を吐くけれども(とくにマジアレは)、いつだって音楽に対し真摯な態度をたもとうとしてきた。安心してほしいのだが、私の知るかぎり、彼らはそうしてきたと思う。

彼らがせっせと水をくべて「育て育て!」と叱咤してきた果実は、デビュー・アルバム『スマーフ男組の個性と発展』の音楽にあますところなく収められ、聴きとれるものとなって実を結ぶことだろう。

いま、2003年8月末において、『スマーフ男組の個性と発展』のための曲はすくなくとも11曲、ミックスダウンを終えている。マジアレによれば、そのアルバムのなかで「ラスコーリニコフがコロッケを買いにいったりする」らしいが、私にはなんのことやらわからない、まあ、期待して待とうではないか。

 

スマーフ男組の個性である、どんぐりまなこのエレクトロ・ヒップホップらしきものは、聴き手を瞠目させ、微笑ませる。

いいかえれば、彼らのチップマンク声=マンチキン声=チビ声とリズム・マシーンへの偏愛はほかにはなかなか例をみないもので、だからその姿は、オールドスクール・エレクトロの快活さを現代のポップの地平へ押しあげようとやっきになっている働きものの青い小人たちのようでもある。

まあ、さんざ周囲をやきもきさせていることからもわかるよう、かなりぐうたらなところもある……マジアレの口ぐせは、なんということだろう、「ぐずぐずしてすみません」(*7)だ。あにはからんや! こののらくらものめ! が、しかし。

いずれにせよ、彼らはその代表曲“808 MYTH APPROACH”で唄っている、「俺たちゃスマーフ男組/寝ても覚めてもエレクトロ」! マジアレに、なにゆえエレクトロかと問うてみたことがある。彼はしばらく考えてから私の目を見て、つぎのようなことを話した。覚えているまんまに書き出してみよう。

 

「うんやっぱり、エレクトロ・ファンクはかなり楽天的な世界観というかな、とてもアホウな──でも、真実の欠片とみまがうようなものがころがってる、そうしたものを、僕たちにかなり突拍子もないかたちでだけれども、示してくれるからなんだと思う。それで首たけなんだと思う。

むしろ、突拍子もないからこそ、惹かれるのかもしれない。

いきすぎだから、なのかもしれない。ええっと、僕が最近ふだん部屋でなにを聴いてるか知ってるかい? セシル・テイラーだぜ!? でもね、だけどやっぱりね、ああいうやり方をもってしても、エレクトロって音楽にも、すごく強度があると思うんだ。

セシルのそれとは似ても似つかないけどもさ。

ヒップホップの人がしばしば“半端ない”っていうでしょ、だけどやっぱ、スマーフは半端なのね。でも、エレクトロは半端じゃない。

そのチーパカチーパカいってるようなフォルムを自在に手なずけてだよ、僕たちスマーフ男組はポップへと突きぬけるんだ! 808命! チープ上等! ブンチキパッドゥンチキブンパドゥン」。

 

おなじく、“808 MYTH APPROACH”。

「カザールのメガネはコンピューマ/そんでアキラはマインド,アキラ・ザ・マインド/ミー,マジック・アレックス,小市民オン・ザ・ビート/ミーは808のヴァーチュオーソ,スマーフはエレクトロのマエストロ/渋谷,恵比寿,新宿,東京,声がかかれば,すぐにエレクトロ」……。

そこにぺてんはない。

いんちきはない。

彼らの口をついてでる「ロックする」というオールドスクール・ヒップホップの常套句はそこで、クリシェでなくなる。

それは言葉遊び以上のものだ。

そして、彼らはリー・ペリーのスーパー・エイプのように帰ってくる。

コンピューマは、猫背をすこし伸ばして「いえい!」といいながらターンテーブルとエレクトロニックなイクイップメントの電源を入れるし、アキラ・ザ・マインドは「ニャハハ!」と笑いながら、しかし冷静に鍵盤を、張りきった弦を、確実にたたくだろう。

心配なのはやつだマジアレだ、が、彼もきっとどうということもなく、「イエース、イエース!」だとか「ジー・ベイビー!」と口ばしりつつはしゃいで、マイクのケーブルにぐるぐるぐるぐるからまって笑うだろう。

スマーフ男組は、あたらしいリリースをもって、あなたがたを、私を、ウキウキさせる。ロックさせる。楔をいれる。躍らせる。踊らせる。

 

 

この一文は、私のためにときどきまあまあなパスタづくりの腕をふるってくれる(*8)、つかず離れずのつきあいを長なが続けている友人のマジアレに、「プロフィールだ、忌憚のないところを書いてくれ」と依頼されたもので、それにしては書きあげたあとに彼から、「この表現はまずいな」、うんぬん、すいぶん水を差されもしたものなのだが、しかし私はがんとして、書いたものを譲らずにおいた。

そのことが、これを読まれる諸兄の、スマーフ男組をさらに理解する一助となったならさいわいに思う。

また、マジアレについての記述が多くなってしまったことについてはここでお詫びしておきたい。

 

text:スティーヴン・スキムミルク(脚注とも)

関係者から筆者への苦言(とか)

 

「ちょっとやりすぎたようね」

   ──メンバーの恋人のひとり

「スティーヴンのやつ、ほら、俺がチャーリー・パーカーマイケル・ジャクソン谷岡ヤスジとおなじ誕生日だってことだけはちゃんと書いとけっていっといたのに……」

   ──マジアレ太カヒRAW

「バーカ! こんな原稿、プレスリリースに使えるわけねーだろ。バーカバカ! ギャラなんて払うか!」

   ──現スマーフ男組A&R,スティーヴンとは旧知,小林弘幸

「僕たちはなにか大きなものを失いかけてるような気がします」

   ──スマーフ男組のビックリ・ビートBBS管理人,レイ氏

「労働するとき、あなたは心のなかにフルートをもっている。そして時のささやきが音楽となる。世界がいっしょに歌っているのに、石のように黙りこくっているのは誰の笛?」

   ──カリル・ギブラン

「真の自己とは、自身の外にあるものです──やたらに自分のなかにもぐりこんで聞き耳をたてるのではなくて、世界が自分にさしだしてくるものに気づくこと」

   ──ミヒャエル・エンデ

「あの、ちょっと情緒的にすぎるんじゃないですかね。こんなふうに書いてマジアレを甘やかすような人がいるから、スマーフはいつまでたってもアルバムが出ないんですわ。なんかもう堂々めぐりですわ」

   ──コンピューマ

「ニャハハ!」

   ──アキラ・ザ・マインド

   

*1 ADS

94年12月8日のパーティー「Asteroid Desert Songs」(@西麻布M. MATISTE)を主宰することより活動を開始。“Asteroid Desert Songs”とは当初、バンドもしくはユニットの名というよりも、パーティーそのもののこと、そしてそこでおこなわれた電子音響、ギター、ターンテーブル、打ち込みなどによる、いわゆるセッションのことを指して、そう呼ばれていた。メンバーは高井康生(Ahh! Folly Jet)、松永耕一、村松誉啓、のちに高橋啓を加えた4人。代表作はアルバム『'till your dog come to be feed』。ADSの音楽について記すことは、またべつの機会にゆずりたい。その紹介を過不足ないものにするには、費やすべき紙幅がおおきなものになりすぎるのだ。ADSを、その音楽を、ひと筋縄でどうにかできるものじゃない(後年、初期のセッションを振りかえって高井は述懐した……「ええっと。ジャーマン・マイアミ」!)。なんていうか、ADSにくらべたら、スマーフ男組なんぞ可愛いものなのだ。ただ、ADS結成時に高井、松永、村松の3人を結びつけた要因が、彼らがみな一様にヤン富田のアルバム『Music For Astro Age』に、まったくの掛け値なしでいかれていたことにあったという、そのことだけ、ここで触れておくことにしよう。

 

*2 M+M Production

がっかりしないでほしい、しかしそれはみなさんの推測のとおり、松永と村松だからMとM、という安直な命名のもとあつらえられたユニットだった。この日のパフォーマンスは、SONYの携帯DATレコーダーで克明に記録されていて、そのDATはいつか陽の目をみるだろうことを見越して、すでに、コンピューマによって、マイルス・デイヴィスのライヴ・レコーディングにおけるテオ・マセロばりの注意深い編集が加えられたものが、準備されている(タイトルは『M+ M Goes Bazerk!!!!! 』。コンピューマの、エディターとしてのクレジットは“ませろ松永”になるだろう)。そのレコーディングがなされた日、DJブースとSlitsの小さなステージで、マジアレとオシロトロン(現コンピューマ)は、文字どおり、吠えている。その音楽が、いくぶんのからかいをもふくめ、もしもヒップホップだと呼ばれるなら、これほどパンクなヒップホップは探しても、ほかにあまり例がないだろうと私には思われる。また、その日の短波ラジオシンセサイザーターンテーブルに載せられた厳選されたレコード盤のぎざぎざしたのこぎり波などなどの咆哮が、ある種の騒々しい電子音楽といえるのなら、それは、これもパンク的なやり方でもって、AMMの『The Crypt』に肉迫していた。

思い出を……彼らならではのアネクドートをひとつ書いておこう。現在はスマーフ男組のA&Rであり、しばらく前にはAhh! Folly JetのA&Rでもあった小林弘幸は、その日、M+M Productionのパフォーマンスに先だってDJを務めていたのだが、マジアレは、小林のかけたジョン・コルトレーンの“フリー”なジャズ、“OM” に大喜びし、耳をふさごうか躊躇しているほかのお客たちをよそに、エアロビクスのダンサーさながらぴょんぴょん跳びはね、Slitsのフロアーを全速力でくるくると走って、はしゃぎまわった。彼の姿はそう、ぱちぱちはぜる火の粉そのもので、いまも私の目にくっきりと焼き付いている。私は正直、「この男の子はいったいどうしちゃったんだろう?」と困惑させられたものだけれど、そのときのことをなにゆえ私が忘れえないかといえば、彼の表情が心底しあわせに満ちあふれたものだったからである。私はだから、その光景を胸にしまって、その日から、半信半疑で、のちのスマーフ男組となる彼らの音楽に徐々にとり憑かれていくことになったのだ。

 

*3 アキラ・ザ・マインド

元アポロスのアキラ・ザ・マインドは結成後ほどなくしてADSにベース・プレイヤーとして招かれ、そののち、ときを経ずして正式加入している(95年8月に新宿P3ギャラリーでおこなわれたイヴェント「UNKNOWNMIX」における、ビーチ・ボーイズの“Fire”をカヴァーしたステージから参加。そこには彼も、ほかの3人とともに消防士のヘルメットを頭に載せて現われた)。アキラ・ザ・マインドはまた、DMBQのベーシスト渡辺龍一、マジアレとともに、オルタナティヴでファンキーなプログレッシヴ・ロック・トリオ、Ultra Freak Overeatのメンバーだった。加えていえば、アキラ・ザ・マインドは一時期、ナチュラル・カラミティーのサポート・メンバーを務めていたこともある。

 

*4 “E・L・E・C・T・R・O 〜スマーフ男組の808 MYTH APPROACH〜”

同曲はその表題にたがわず、スマーフ男組のキャリアをつうじ最もストレートにエレクトロ・ヒップホップへの愛情が注ぎ込まれ、なおかつそれが存分に表出したものとなっている。“E・L・E・C・T・R・O ”は、2 Live Crewの“Beat Box(Remix)”の冒頭をさらにリ・エディットしたものからはじまり(このぶぶんは、J-WAVEのジングルとして、いまだにつかわれている)、 Unknown DJの「I am a master of the 808!」をみずからの態度表明のために参照しつつ、TR-808の32分音符を多用した彼ら独自のビートになだれ込む(それは、曲調からすれば意外だが、ホワン・アトキンスの“Clear”のシンコペーションと似かよっている)。そして、ジェリービーンの“The Mexican”にあるような生演奏のボンゴ・ソロ、さらにみなさんもラメルジーの“Beat Bop”でご案内だろうパーカッション……つまりフレクサトーンの身震いをはさんでから、コンピューマとマジアレのいくぶん調子はずれのコーラスで歩幅をおおきく拡げる。ついで、アキラ・ザ・マインドのラテンふうなタッチのキーボード、クラフトワークのようにひんやりしたストリングス・シンセでその色彩を豊かにし(ここで変化するベースラインはインヴィジブル・スクラッチ・ピクルスが速まわししてかけたオリジナル・コンセプトの“Knowledge Me”)、さらに、ニュークリアスの“Jam On Revenge”をTR-808フィルインに、また、フリースタイルの「I know, you’re feelin'!」をリズムのカウンターに引用しながら、コンピューマがサンプルしたマジアレのチビ声連打、おなじくコンピューマ自慢のヴォコーダー、 EMS System-2000のチャントをきっかけに、“Looking For The Perfect Beat”のアーサー・ベイカーのリヴァーヴの峡谷にビートを没入させ、いよいよリズムを沸騰しにかかる。そして、マジアレのどちらかといえばまだ珍しい部類にはいる種類のMC、16小節のラッピング(最後のほうで、ミスター・マジックのラジオ・ショウの常套句を翻案した「スマーフスマーフ,男,男,組,組!」が聴かれる)を経て、コンピューマの湯気のたつスクラッチ(“マルティグラへつれてって”と、ピーター・ウルフの“Lights Out”)を招きいれた“E・L・E・C・T・R・O ”は、熱でBPMを融解する寸前でなんとかもちこたえている、といった表情へと劇的な変化をとげる。ぶくぶく。やがて、幕ぎれにおいては、“Planet Rock”のボーナス・ビートの寸分たがわぬコピーのうえでコンピューマが愛器の短波ラジオをワルツさせ、聴き手を成層圏の外側へとはこびだす。……眺めはどうだい!?

以上。“E・L・E・C・T・R・O ”は、7分04秒のエレクトロ・ライディングだ。

この項、脚注としてはかなり長いものになってしまった。いい機会だから、整理しておくことにしよう。“E・L・E・C・T・R・O ”には上記にみてきたように直接、間接問わず列挙すれば、以下のA to Zの要素がトッピングされている。

□2 Live Crew“Beat Box(Remix)”(Luke Skywalker)A

□Unknown DJ“808 Beats”(Techno Hop)B

Cybotron“Clear”(Fantasy)C

□Jellybean“The Mexican”(EMI)D

□Rammelzee Vs. K-Rob“Beat Bop”(Tartown/Profile)E

Kraftwerk“Trans-Europe Express”もしくは“Tour De France”(EMI)F

□Original Concept“Knowledge Me”(Def Jam)G

□Newcleus“Jam On Revenge”(Sunny View)H

 ──ニュークリアスはいわずとしれた、マジアレのアイドル。マジアレのチビ声は、彼らにルーツの多くを負っている。

□Freestyle“It’s Automatic”(Music Specialists)I

□Mister Magic’s Rap Attack(WBLS-FM/NYのジングル)J

Afrika Bambaataa & Soul Sonic Force“Looking For The Perfect Beat”(Tommy Boy)K

Bob James“Take Me To The Mardi Gras”(CTI)L

 ──クロスフェイダーの切り方は、Davy DMXの“One For The Treble”(M)みたいだ。

□Peter Wolf“Lights Out”(EMI)N

 ──Michael Jonzun(O)のプロデュース作。

Afrika Bambaataa & Soul Sonic Force“Planet Rock”(Tommy Boy)P

いうまでもないが、この曲で聴かれる軽やかな主旋律、シンセのメロディーはスマーフ……Peyoのほんとうのスマーフのアニメーション音楽からの借用であり(Q)、冒頭のエディットはラテン・ラスカルズ(R)、もしくはトニー・ガルシア(S)のそれに迫らんとしてシーケンスされたものだ。また、サブ・タイトルの“808 MYTH APPROACH”とは、サン・ラーと彼のアーケストラ(T)からのもじりである。さらにつけ加えれば、マジアレのチップマンク声(U)=マンチキン声=チビ声は、ニュークリアスに勝るとも劣らず、マイクロノーツ(Micronawts)の“Smurph Across The Surf”(V)から甚大な影響を受けたもの……つまり、マジアレのいいぶんによれば「もうなんてか、好きで好きで。この12インチ・レコードと僕の宝物、ビリー・ホリデイ(W)の都合38枚のアルバム、580曲以上とは、ちょっと天秤にかけられないくらいなんだ! ボリス・ヴィアン(X)はさ、エリントン(Y)の音楽と女の子がいれば、ほかにはなんもいらないっていったそうだけど、僕は、僕の恋人と、ビリー・ホリデイと、“Smurph Across The Surf”があれば、ほかになんもいらないんだよね、ワッハハ!」なんだそうだ。ハ! まあ、私には知ったこっちゃないがね……(Z/私……筆者スティーヴンの近影。そうさ、かなり強引なA to Zだね!)。

 

*5 スマーフ渚をわたる

98年8月から99 年6月までの全11回に終わっている。ゲストにはTPfX、脱線3、中原昌也、LATIN RAS KAZ、下北バンバータ、全裸ロックなどおなじみの面々のほか、荏開津広、二見裕志、コスモ星丸(イルドーザーの石黒)、KZA、パンプ横山(!)、ロマン・ポルシェ、意外なところでは橋本徹(サバービア)もDJで一夜を飾ったという記録が残されている。マジアレによれば、アルバム・リリース後に再開されるだろうレギュラー・パーティーは「スマーフ“また”渚をわたる」として構想されるはずだとのこと。

 

*6 スマーフ男組の個性と発展

このタイトルは、ギル・エヴァンスのアルバム『The Individualism Of Gil Evans』の邦題のもじり。また、同アルバムには副題に、“NUEVO TIEMPO”(こちらはアストル・ピアソラと彼のキンテートのアルバム・タイトルのもじり)とつけ加えられる予定もある。いずれにせよそれは、15曲前後が収録されたアルバムとなるだろう。

 

*7 ぐずぐずしてすみません!

マジアレは 9・11以降、しばらく人が変わってしまったのかもわからない。アフガンとイラクの戦争を経て、彼は人生の底を右往左往し、しまいにはがっくりと、一時期は頭を下げたままになってしまった。彼はあまりに、ほとんどカマリロ病院で静養したまんまのような期間、つまり猶予のような期間を必要としすぎていたようだ。しかし彼は最近、散歩することをなによりの楽しみにしている(そのことについては、バッファロー・ドーターバイオグラフィー『303 Life』でも触れられている)。彼の生活そのものは、すぐさま、スマーフ男組にフィードバックされ、その音楽に敷衍されていくことだろう。彼のアウトプットはいま、へたくそな文章を書くことと、恋人にキスをすること、音楽をつくりだすことにしかないのだ。「『生活笑百科』のキダタローのテーマ曲って土曜の昼をうきうきさせんじゃん!? ああいう音楽をやりたいんだ!」──最近のマジアレはときおり理解に苦しむようなことを口走るが、私は、つとめて好意的にその言葉を受けとめようと思っている。

 

*8 マジアレのパスタ

こないだマジアレはきのこのクリーム・パスタを私にふるまってくれたが、悲しいことにその生クリームは脂肪分とそうでないものに完全に分離しており、いつもならよほどのことがないかぎり彼の料理をたいらげる私も音をあげてしまうほかなかった。つまり、彼のパスタは彼のDJとおなじで、失敗することもすくなからずある、ということだ。だが、私はこの場を借りて彼に強くいっておきたい。「なにを怖れることがあるものかい!」。

 

僕がブログを書く理由と無駄なものの尊さについて。

大学生になってから、9月はいつもそわそわする。自分の暦の感覚では「夏休みは8月31日まで」なのに、学校はまだ始まっていないからだ。ゲームのボーナスステージに突入したときに、そわそわする。そんな感じと言えば、適切だろうか。


この夏はたくさん働いた。WEBサービス作ったり、未来のことを考えたり、インタビューに行ったり、後輩に仕事を紹介したり、ライターをしたり、たくさんの仕事をした。

というか今もしているのだけれど。


そんなことをしていると「どうして就職先が決まったのに、そんなに働くの?」とたくさん聞かれた。一重に仕事しているのが楽しい。何かを生産していると、自己肯定力が沸くからだ。そして何の仕事でもそんな楽しい訳ではない。自分が面白いと思える仕事を振ってもらえているから、そんな風に思えるだけだ。事実、これまで働いてきて、楽しくなかった仕事など沢山ある。

 

 

もう一つの大きな理由が自分が仕事をすればするほど、十年後が不安で仕方なくなるからだ。その理由として、今の自分が面白い仕事を振ってもらえる大きな理由として、「今の自分が若い」という価値が背景にあるからだ。僕は「若い」という称号を今後、少しずつ消失していく。つまり、それは若さを失っていくことに備えて、他者に提供できる別の価値を用意しなければいけない、ということだ。果たして、これから自分はそういった価値を会得することが出来るのか。そういった不安が「若さ」を担保に仕事を繰り返すにつれて、増幅していくのである。これから変わっていかざるを得ない自分に不安を感じるのだ。でも人々は変化せざるを得ない。


物事は何でも気付いたときには既に手遅れということが多い。我々、人間は鈍感で、少しずつ変化していく物事に気づくのが苦手である。昔、脳を鍛えるアハ体験を訴える番組で写真の一部分が少しずつ変化していき、気付いた頃には全く違うものになっていても、出演者も視聴者の大勢も気付かないというコンテンツがあったことを覚えてるだろうか?まさしくああいったことは現実にもたくさんある。


昔の写真と見比べなければ、自分が如何に太ったのか気づくことは難しいし、久しぶりに家を訪れる友人がいなければ、如何に部屋が荒れたのかを認知することは難しいし、現実は少しずつ姿形を変えていき、気づいた頃には、過去に戻るには労力を必要とする段階やもう元には戻れない段階に達していることが多い。人間関係や自分の趣味嗜好だってそうだろう。


僕より先に一年早く就職した友達と半年ぶりに会う、なんてことがこの頃多い。研修を終えて落ち着き始めたり、僕も就活が終わったことが大きな理由だろう。久しぶりに会うと、彼や彼女らがこの半年で何が変わって何が変わってないかが目につく。同時に彼や彼女らから僕の何が変わったか変わってないかを聞くのが面白い。逆説的に上記の双方の変化に言及する会話は、自分や相手が他人の何を見るようになったかの変化でもあるように思えるからだ。自分では僕は社会性を獲得するにつれて、物語性への無条件な期待や自分の不器用さを肯定するところが少しずつ自分の中で消えていってるように思える。


最近知り合った人は僕が音楽イベントをやっていたことも、僕が童貞をこじらせたような呟きをしていたことも、インターネットが苦手だったことも知らない。


ずっと一緒にいて連続的に僕を見ている人と、久しぶりに会って断続的に僕を見る人と、今日今知り合った一点で僕を見る人と、それぞれの僕の見え方は違う。逆もまた然りで、僕から見える皆も僕以外の誰かから見える皆とは違う訳だ。


また、どうしたって自分以外の他人の全てを知ることは出来ない。これは何とも悔しいことだと思う。他人のブログを読んでいると、そのブログに書かれなかった日々の泡のことを想うし、他人の思い出を聞いてると、彼や彼女の思い出にならなかった日常のことを想うし、他人の家に入ると、その部屋で過ごしてきた年月やこれまでそこで行われてきたことを想う。人間の経験を全て記録や伝承することは不可能で、誰にも伝えられなかったことの方が多い。誰にも知られないまま消えていった誰かの思い出や気持ちはどこにいってしまうのだろう。


ところで僕は役に立たないものや無駄なものが好きだ。プレイヤーがないのにビデオテープを買い、情報としての鮮度は落ちきった何十年も前の雑誌を買い、空になった米袋にMacを入れて持ち歩いている。


もしかしたら、というかもしかしなくても、役に立たないし無駄かもしれないけど、そういうものをこれからも愛でていきたいからどうでもいい思いつきとか最近起きたこととかを皆に教えて欲しいし、聞いて欲しいと思う。そういったものを蓄積させていくことで、どんな見え方であったとしても、自分のことを少しでも理解して欲しいし、相手のことを少しでも理解したいな、と思う。

 

本来はここまでで文章を書き終わっていて、一度公開して、自分の好きな劇団の演劇の感想を読んでいた。四年前に開かれた、その演劇の感想にはこんなことが書いてあった。

死んだ妻は夫に「憶えていて」「忘れないで」と言い続けます。それに対して夫が「思い出せる限りの全てを、できる限り細かく、記述する」と答えたのには納得でした。私たちはどうしたって何でも忘れます。だから、主観が入ってしまうとはいえ、記述することが大事なんですよね。

久しぶりに会った友達に「どうしてブログをやっているの?」と聞かれたとき、うまく説明できなかったのだけど、その問いへの答えがまさにこれだな、と思った。僕らは何かを成したことを忘れないかもしれないけど、何を考えていたかなんてことはすぐに忘れてしまうから、それは無駄かもしれないけど、僕にとっては大事なものだから、いつでも思い出せるようにブログを書いているのだと思った。TwitterTumblrもなんでもSNSはそうだ。僕は自分のあらゆるものがアーカイヴ化されて、いつでも取り出し可能いなっていて欲しいのだ。ネットを使えば、どんな情報でも引き出せるようにしたいのだ。例え、それが一見すると、無駄なものであったとしても構わない。ただ、そうすることでしか僕らは「今」をただの「過去」にさせまいと、時間に抵抗することは出来ないのではないだろうか。物語を紡ぐことの価値はそこにあるのではないだろうか。そんなことを考えるに至った。

どうやら僕の物語への信頼みたいなものはまだ失われていないようだ。そして、あのときの「どうしてブログをやっているの?」という質問がなければ、その質問に答えることが出来ていれば、胸にひっかかっていなければ、僕はこんなことを思わず、ブログも書き換えなかったことを思えば、人生は不確実で、人生は無駄によって少しずつ動かされているのかもしれない。

 

 

写真は今年の夏の最後の花火。嬉しいことに僕以外は初対面の人ばかりが集まってくれた。ここでの出会いが誰かの未来を変えれば、僕は嬉しいのだけれど。 

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ステッカーが重なるMacを見て、大学四年間を振り返った話。その四

 前回の記事で大学三年の終わりまで辿り着いた。この記事では年が明けて、2016年の年明けから話していこうと思う。

 まず年始に我がシェアハウスに一通だけ年賀状が届いた。年賀状なんてもう何年も出してないけど、こうやって自分たちに向けたプロダクトが知り合いから家に送られてくるのはいいなーと思った。

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 一月頭から去年の夏から働いてたIT系の会社と並行して、広告代理店の社内ベンチャーで働き始めた。仕事は簡単に説明すると、先端的な消費者リサーチをすることで未来の動向を調査するというものだ。

ここの仕事も面白かった。これまで主に働いてきた職場は広く括ればサービス開発だったので、シンクタンクやコンサルといった色合いの強い職場が新鮮だったのもある。だが、それより何よりそこの会社の働いている人たちが魅力的だった。

そこの社員の方々が自分のことを認めてくれて適切な課題設定とフィードバックしてくれたこと、そこの先輩の学生インターンの方々を見て、自分より学年が1つ上にこんな優秀な人たちがいるのかと思い見よう見まねで色々学べたこと、自分と同じタイミングでインターンとして入った人たちがいたおかげで彼や彼女らに比べて自分が何が秀でて何が劣っているのかを確認することが出来たこと、どれも良い体験だった。あと何と言っても未来のことを考えるのは楽しい。大学四年の夏である今もこの会社で働いている。

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 二月。突如、Redbullの企画に出場することになり、二日の突貫工事で動画を制作する。僕は買い出ししかやってないけど、今のところシェアハウスメンバーで協力して何かを作った最後の企画がこれだった。結果はその企画の本選に出場することは出来なかったけど、たくさんのRedBullを貰ったので、それはそれでよかった。

RedBull Can you make it 2016 by Super Dog House

 

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 春先に以前から働いていたIT系の会社の社長に呼び出され、その会社のアルバイトやめることになった。一応その会社から内定は貰っていたのだが、社長の考えでは新卒でこの会社、というよりもベンチャーに来るのは君にとって最適解ではない、ということだった。簡単にまとめたが、そのとき聞いた話は僕が一連の就活で最も影響を受けた話だった。今でもこのときの話や帰り道に考えたことは思い出す。

 

 その後、就活が始まる。調子に乗って両手あれば充分に数えれるほどしか、ESをを出さなかった。そのタイミングで縁あって別のIT系の会社で働くことになった。ここは素晴らしい会社で新進気鋭の業界最注目の会社であった。自分が就職する可能性も考えながら働き始めた。しかし、就活を続けながら代理店とこの会社で働くことに心の余裕がなかったこと、そして前述の社長の話からすれば自分が新卒で入る会社ではないと感じてしまったこと、そんな理由からワガママを言って、一ヶ月半でやめさせていただいた。自分が思っていたよりも就活しながら二社で働くというのはストレスだった。

素晴らしい会社であっただけに残念だった。人生の違うタイミングで働かせてもらいたい会社だった。入社したときに自分のデスクに自分の名前の書いた風船が吊られたとき、最後の出社の際に花束をもらったとき、すごく嬉しかった。

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 三月と四月は趣味で雑誌を解体していた。「tokyo teleport」というチームを組んで雑誌で遊ぶためだった。今のところ、音楽イベントに雑誌のページを持って行って、そのページからお客さんにオリジナルの雑誌を作ってもらうというワークショップしか実施していないけど、他にも色々やりたいことがあるので準備中。これをやってるおかげで雑誌関係の知り合いがたくさん出来て嬉しかった。個人的にも雑誌を買うことが数倍に増えた。これからももっと頑張りたいなぁ。

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 四月からイタリア人が我が家に住み始めた。彼が作るパスタはとても美味しかった。六月からはもう一人のイタリア人が我が家に住み始めた。より一層、家が賑やかになった。コロコロと同居人の人数が変わり、月によって家に住んでる人数が変わった。普段、外国に行かない僕にとって外国人と暮らすのは新鮮な体験だったけど、日本人と住んでいるのと違うことは特に無かった。日本と彼らの国の文化の違いやイタリアやヨーロッパの人々の暮らしなど新鮮な情報をたくさん教えてもらった。

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 ちなみに就活の結果は数社しかESを出さなかったのにも関わらず散々であった。ESで落ちたり、一次面接で落ちたりということが続いた。どうしたものかしら、と困っている時にとある大企業の人に呼ばれた。大学二年生の後半にインターンしていた会社の先輩だった。その人は僕より一年早く就職し、その会社に入社していた。話は「うちでアルバイトとして働かないか?」というものだった。仕事が面白そうだったこと、就活が少し落ち着き始めていた時期だったこと、自分がESを提出していた企業だったので様子を見ようと思ったこと、春先に元バイト先の社長から勧められた会社だったことなどなどの複数の理由から、そこでアルバイトを始めた。実際に仕事は面白かったし、いい会社だなぁと思っていた折に、アルバイトしていることとは関係く、その会社から内定をいただけた。そうしてその会社に就職することを決めた。人生は何が起きるか分からない。そもそも今年の頭には今の内定先のことを自分の肌に合わない会社だと思っていたことを考えると不思議だ。

 就活が終わった友達に就活の話を聞くと、誰も彼もそれなりにドラマがあって面白い。お父さんから送られてきた内定おめでとうのメールにグッと来る友だちがいたり、就活が終わって久しぶりに話したら口癖が「それもまた人生」になっていて達観した考え方になっている友達がいたりして面白い。就活終わってから会ってない友達には是非そのへんの話を詳しく聞かせて欲しい。

 そうしてこうして内定先の大企業と広告代理店の社内ベンチャーで働きながら、今は暮らしている。大学生活最後の半年は「お金」よりも「時間」を優先すべきだとはよく言うけど、色々な会社で働くってのもそれはそれで面白いかな、と思ってる。おかげでたくさん本が買えて嬉しい。それもまた人生。

 

 

 ここ最近、久しぶりに会った友達は僕が仲良かった頃より、人生のステージを一段、あるいは何段も進めており、自分が知っている彼や彼女らと変わってしまっていて、寂しくなることが多い。でも周りから見れば、僕もそうなのかもしれない。果たして、僕はこの三年半で少しでも大人になれたんだろうか、と思いながら、自分のMacに貼ったステッカーを見つめる。名残惜しくて、新しく買ったProに移行せずに、三ヶ月間ぐらいが経過した。それもまた人生。

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※余談だが最近は昔のインターネットはどんな文化だったのか、そもそもインターネットはどこから来たのかみたいなことをぼちぼち調べてる。これが楽しい。何かしら形にできたらいいのだけれど。

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ステッカーが重なるMacを見て、大学四年間を振り返った話。その三

 前回は大学二年の終わりに大阪でパーティーを開いた話まで辿り着いた。大学二年の終わり、春休みにもう1つ大きな出来事があった。シェアハウスを解散したことだった。そしてまた同じ街の家でもともと僕と一緒に住んでいた三人とパーティーでいつもVJをしてくれていた友達の四人で住み始めた。移り住むのときの引っ越しはほんとうにしんどかった。ゴミ屋敷一歩手前ぐらい汚かった家のものを運び、また捨てたのだから当たり前なのだが。次の日が川を渡った隣の区のゴミの日だったので、夜中から朝にかけて何度も端を渡り、ゴミを捨てに行ったときはほんとうにしんどかった。そのあと何もない家に帰ってきて、新しい家に戻る体力もなく、同居人たちと何もない床に寒い中、倒れこんだときはもう体から何もかもがなくなった気がした。

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 そうして五人暮らしが始まりました。この頃は毎晩、朝までボードゲームをしていました。あとレイトショーもよく観に行ってた気がします。よく友達も家に呼んで遊んでいた。「ドローンを買おう」ってよく行ったけど、結局、買わずじまいだったりしました。

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 五人暮らしと言ったけれど、僕が紹介した女の子と同居人が付き合うことになって、彼女がよく家にいたので、実際のところは六人暮らしでした。彼らは夏に結婚することになって、僕らの家を出て行きました。生まれて初めて僕は仲人になりました。思っていたよりも早かったです。彼らが出て行くとき、僕らは皆、なんだか忙しくて特にお別れの挨拶もすることなかったです。そのあと、彼らには子どもが生まれて、もう数ヶ月経つんですが、まだ写真でしか見たことがありません。なんだかんだ人生はタイミングが大事で、一度別の道に進んでしまうと、案外会わなくなったりするもんです。パーティーをやっていたときも一緒に主催していた友達と会わなくなるなんて思わなかった。

 そして、四人暮らしになり、その後、新しく二人住み始めて六人暮らしになって、一人が抜けて今度は五人暮らしになったりしました。住人がころころ変わるのもそれはそれで面白かったです。シェアハウスの住人でビジコンに出たり、夏の新宿でスイカ割りしたり、たくさん遊びました。この夏は朝に家に帰ることが多かった。

 

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 春から僕は新しいバイトを渋谷で始めていました。CGMサービスを運営している会社で働いていました。この会社でもよく怒られました。「机の上が汚い」「お辞儀の角度が正しくない」「お茶の出し方が間違っている」などなど怒られた点は多岐に渡ります。自分が気にしたことなかったことまで怒ってもらいました。前のバイトに引き続き「世の中って厳しいなぁ」と思いました。そのときに怒ってもらったことは今でも思い返します。今の職場で何も言われなくても、ときたま自分の所作を思い返し「これだとそのときの上司に怒られるな」と心掛けることは多いです。「使えない人」として扱われるのが悔しかったのと少しでも給料に対するバリューを上げれるように、毎朝、机を拭いたり窓を拭いたり、オフィスの掃除から始めていました。でも結局、思いつきで数ヶ月で急にやめてしまいました。今でも申し訳ないです。

 

 この年の夏にはたくさんの短期インターンに行きました。何度か優勝したこともあったけど、途中で帰らされたこともありました。優勝したけど、自分のチームメイトがバリュー発揮できなくて悔しくて泣いていたときもありました。まだまだコミュニケーションに問題がありました。あと優勝したりして調子に乗っていたりしました。つまらなくて途中で行かなくなったこともありました。相変わらず失敗ばかりです。色々な人に迷惑かけたと思います。同じ間違いをしないようにしても同じように間違えることもあるし、成長するって難しいです。少しずつ、同じ間違いをしないようにならないと。このときに褒めてくれた人も怒ってくれた人も貴重な時間を作ってもらって、今から振り返ればすごくありがたいです。

 「短期インターンに行くメリットって何ですか?」って後輩から最近、よく聞かれます。早期内定を貰うって直接的なメリットもありますが、色々な会社を見れるってのはメリットなんじゃないかなぁと思います。就活の際の会社選びの定規を伸ばすことが出来ると思います。まぁこの話はまたどこかで…。

 

 あと夏は同居人の山の中の別荘でパーティーを開きました。プライベートな敷地なのでクローズドなパーティーでした。千葉の山奥までたくさんの友人が遊びに来てくれて嬉しかったです。この日もすごく大変で、そのぶんすごく楽しかった。昼から準備を始めて、翌日の昼にパーティーが終わった。24時間パーティーをやり続けたんじゃないかな。クローズドなものも含めれば、これが最後に開いた音楽イベントでした。この日に城くんが撮影してくれた映像がすごくよかった。いつか公開できればいいのだけれど。

 余談だけど、このときパーティーをやった家はもうすぐ売られちゃうらしいです。最後の夏にみんなでパーティー出来れば嬉しいね。

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 前のバイト先を突然やめて、二週間した、ある日。とある人から連絡が届きました。大学一年のサークルをやめさせられたときに、僕が受けた説教をREMIXして曲にしてくれた先輩と一緒にレーベルを経営していた人でした。その人はその後、IT系の会社を起業していました。大学二年の夏に一週間だけ軽く仕事をお手伝いしたことがありました。その人から一年ぶりに連絡が来ました。話を聞くと、どうやらその人が起業した会社がそこそこ大きい会社に買収されており、そこの会社の中のチームとして動いているようでした。そして、その会社で別のチームが大学生向けのアプリを作っているとのことでした。そこでアドバイスが欲しい、という連絡でした。元から知っていた会社だということもあって、大学生なりにアドバイスをさせてもらいました。その場がきっかけでひょんなことから、その会社で働き始めることになりました。この会社は結局、大学三年の終わりまで八ヶ月間、働かせてもらいました。統計やらプロモーションやら、色々勉強させてもらいました。大したことはしてないけど、めちゃくちゃ勉強させてもらいました。様々な意思決定の際にどういう理屈で考えればいいか、教えてもらいました。今、何かを考えるときの基盤になっていることの多くはこのときに教えてもらいました。人とどうやってコミュニケーションすればいいかもこのときの上司を参考に思い描いて考えることが多いです。リーンスタートアップとか統計の本とかそのときの上司にまだ返していない本がいくつもあって申し訳ないです。

 あと、此のバイト先はそれまで働いた会社の中で一番楽しかったです。自分が将来働くイメージを持つことが出来ました。この会社で働くのが楽しすぎて大学三年の後半はほとんど大学に行きませんでした。あくまで学生バイトの身で重責やプレッシャーが殆どなく、のびのびした環境だったことや周りの人たちがすごく優しかったことおかげなのだけれど「働くのって楽しい」と心底思ったのは、自分の将来を考える上でいい経験でした。

 上司の家のソファーで寝たときに、そのソファーでおしっこ漏らす夢を見て、飛び起きたことが懐かしいです。

 

 長くなったので、その四に続きます。この連載はいつ終わるんでしょうか…。

 

ステッカーが重なるMacを見て、大学四年間を振り返った話。その二

 前回の記事では大学二年の夏に音楽イベントを開催したところまで振り返った。その後、ひょんなことからアドテクノロジーのデマンドサイドプラットフォームの提供会社のサマーインターンに行くことになる。Twitterで「〇〇って会社のインターン行きたいけれど、募集が大学三年生からなんだよなぁ」と呟いたところ、エゴサーチで見つけた全く知らない社員の方から「受けてみればいいじゃん!」とリプライを貰ったのがきっかけだった。自分の人生の転機には必ずTwitterがあります。

 このインターンが凄まじく楽しかった。三日三晩寝ずに答えがあるのかも分からない課題をチームで考えつづけました。どうやら自分は「答えのない課題をチームで考え続ける」みたいなことが好きみたいです。ここの会社のインターンが自分をIT業界へと、より惹きつけることになりました。今でも思い返します。

ちなみにこのとき僕はkeynoteパワポも触ったことがなくて、Macも持ってなくて、プレゼンも下手くそでめちゃくちゃ足手まといでした。コミュニケーション能力も低いし、会議の論点もずらしてしまいがちでした。フィードバックを聞いても、ピンと来てませんでした。今から考えると、凄まじく調子に乗っていました。このときの参加者はどなたも優秀でしたが、会う人はだれも居ません。自分に独りよがりな行動や態度が多かったのではないか、と思います。ちなみに課題がそんなところだと気づかずに、「とりあえずMacに慣れねば!」と思って、この夏にMacを買いました。

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そしてネット広告に興味を持ったのをきっかけに夏の終わりからネット広告に関する会社で働くことになります。一日にやるべき仕事が決まっており、効率よく仕事を回すテクニックや一度、上司に聞いたことはきちんと覚えることが求められる職場でした。バイラルメディアの運営やライターをやっていたときは社員も少なく、自由な環境だったのに対して、きちんとした制度や組織が存在する会社でした。ここでもコミュニケーションが上手く行かず、周りのインターン生にも馴染めず、仕事も上手く行かず、毎日怒られていました。仕事に行くのが嫌な時期もありました。結果、大学三年の始めまで、半年勤めて、やめました。怒られる毎日できちんとバリューを発揮出来たのかは怪しいですが、一部のネット広告の実務的なシステムがどのように回っているかを実感することが出来たので、自分としては満足でした。この会社に勤めたおかげで「あ、短期インターンでアイデア出す=優秀ではないんだ」ということに気づきました。今になって振り返れば、遅い、遅すぎる気付きです。

 

 また夏の途中から高田馬場のシェアハウスに住み始めました。きっかけは朝五時に「○○(当時住んでた街)も飽きたなぁ」と呟いたところ、以前にイベントに出てもらった、ふるえるゆびさきのメンバーが居候を募集しているつぶやきが数分後にTwitterのTLに現れたことです。彼はふるえるゆびさきのもう一人のメンバーと高校からの同級生の三人で住んでいたのですが、彼以外が夏休みの間、留学に行ったり、実家で大学院の勉強をしたりしていて、留守だったのです。朝八時には生活必需品を持って、彼らの家にいました。最初は夏休みの間の予定だったのですが、帰ってきた残りの二人にも「住めば?」と言われ、元の家を解約し、本格的に住み始めました。ラーメンと油そばばっかり食べてたように思えます。当時は全員、就活もまだ先だし、特にすることもないしって感じでわりかし皆、ヒマでした。一日中、ワンピースのアニメの名シーンを同居人と見たりしていました。この頃の生活が自分の大学生活の中でもっとも怠惰を嗜んだ毎日だったと振り返ったときに思う。当時、乃木坂にハマっていた同居人が毎日歌っている声が聴こえたりしました。

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 冬にはシェアハウスで101本の映画上映会をやっていました。諸事情あって、途中で中止になっちゃったんだけど、毎日家で映画を上映して、色んな人がうちに遊びに来てくれるのは楽しかったです。思いつきだけど、やってよかった。このときに初めて観た、僕たち急行A列車のことは電車の車窓から線路に近い家のベランダを眺めるとき、いつも思い出します。

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 またこの大学二年という一年間は今から思えば狂ったように遊んでた一年間だったように思える。先輩と金曜日の夜から遊んで、土曜日に奥渋谷の別の先輩の家で仮眠して、そのあと渋谷で寿司を食べるか、ホテルの朝食バイキングに行くかを選んでいた。そしてその後、土曜日一限に出席し、そのまま一限が終わり次第、また先輩と遊んでいた。遊んでいたって言っても、色んな国の大使館を巡ったりとかそんなんだけど。大学生活が後半になるにつれて、そんなふうに遊ぶことは減っていたけど、この一年は本当に楽しかったように思えます。「リッキー君って毎日楽しそうだよね」って大学でよく言われました。何事にも無邪気だったように思える。

 冬にはまたELMERというパーティーをやりました。MISTAKES、DJ UCHIAGE、Redcompass、2 Fat DJ、笑う環境音楽、自分で言うのも何ですがいいメンツだったと思います。毎回、パーティーは開くたびに出演者の人が素晴らしいプレイや演奏をしてくれて、感無量になります。だけど、もう運営しているチームは疲労していました。「たかが小規模のパーティー」と言われてしまうかもしれないけど、これ以上、現行のメンバーでパーティーをし続けるのは無理な状況でした。何が問題だったかを明確に言い表すことは出来ないけれど、とにかく皆が色々なことに疲れてしまっていました。この日から会ってない運営メンバーもいます。皆、何してるんだろう。振り返れば、またしても僕はコミュニケーションに失敗してしまったように思います。

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ELMER#4

 

 大学二年の終わりには幾人かのELMER運営メンバーとふるえるゆびさきで大阪に向かい、大阪でELMERを開きました。VJをやってくれていたしょたろが大阪まで一日かけて車を運転してくれました。フラフラになりながら夜に僕の実家に着くも、その後、朝まで人狼をしていたせいで疲れが全く取れてませんでした。フラフラのふるえるゆびさきのケツを叩いて翌朝、スタジオに練習に行かせました。この日のイベントはふるえるゆびさき、本日休演、the oto factoryのライヴ、Blackglass GさんとLATECKSMANこと宮島のDJというメンツでした。今思い返しても、皆、来ておくべきでしかなかったという豪華なメンツだと思える。そこまで交流のなかった本日休演やthe oto factoryの皆さんが出演してくださり、かつ素晴らしいライヴパフォーマンスで嬉しかったです。これまでライヴに出演してくださった人たちのライヴはいつだってまた観たい人たちばかりです。この日はそのあと朝まで難波の怪しい店が立ち並ぶ迷宮みたいな建物で飲んで過ごしました。楽しかった。翌日は静岡の旅館に泊まって帰りました。

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ELMER#5

 結果としては、これが僕が最後に開いたパーティーになってしまった。色々やりたい気持ちはそのあともあったのだけど、色々うまくいかなかった。少しずつ聴いている音楽も減っていった。気づかない間に自分が高校生活のときに思い描いた大学生活とは違う方向へ舵を切っていきました。総じてコミュニケーションに失敗し続けた一年でした。そのときは気付いてなかったけど。

 

 長くなったので、その3に続きます。ようやく折り返し地点まで辿り着きました。

 

 

ステッカーが重なるMacを見て、大学四年間を振り返った話。その一

 相も変わらず、今晩も新宿のカフェで今日も仕事をしている。ここのところ、毎週末いるような気がする。いつから、ここに通うことになったのだろうか。最初は深夜の映画上映時間までの時間を潰すために来たのかしら。詳しくは覚えていない。今日はインターン先の壁にイラストが描かれている様子を見てたら、仕事を残して帰宅してしまったのだ。ベンチャーみがある。

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 「この壁はリッキーのMacみたいにしたいのよねぇ」と社員の人に言ってもらった。自分のMacは大学二年の夏に購入してから、ステッカーを貼り続けてきたので、ステッカーにステッカーが重なり、地層のようになっているのだ。一枚一枚を見ていると、自分の大学生活を思い出す。

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 ちょうどいい機会なので、ブログにこれまでの大学生活三年半をまとめておこうと思った。

 

大学1年

 入学と共に入った音楽サークルを夏休みが始まる前にやめさせられることになった。やめさせられる際の説教を隠し撮りして、あとで先輩にRemixしてもらって曲にして、Soundcloudに公開した。今から思うと、生意気で嫌な一年生だったと思う。

 その後、サークル無所属でヒマになって、夏休みはぶらぶらしていた。そんな中、Love and the Kraftsと失敗しない生き方というお世話になってた先輩のバンドが3マンライヴをするという話を聞き、下北沢のライヴハウスに赴く。そこで知らない唯一知らなかったアクトであった「ふるえるゆびさき」というバンドの演奏を観る。あまりにそのライヴがよかったこと、話を聞けば同い年であったことから、演奏後に声をかける。ちなみにそのときの演奏がこの動画。携帯を見ながら踊っているのが僕である。このとき、幾人もの友達に「ふるえるゆびさきのライヴがやばい」と連絡をしていたことをよく覚えている。「いつか彼らを呼んで、イベントを開こう」とも言っていったこともよく覚えてる。

 その後、なんやかんや遊んでた気がする。「大学生活を楽しまねば」「大学生活中に何かをなさねば」みたいな強迫観念に囚われては空振りしていたように思う。

 12月末に「渡邉公開処刑ナイト」というイベントを開く。当時、よく遊んでいた岐阜の大学生の渡邉くんを社会的に処刑するという名目で開かれた、DJイベントだった。当時、作成したNAVERまとめを読むと「RIKKYの軽はずみな思いつきから始まったこのイベント。名を連ねるDJたちは、インターネットを通して各々が渡邉元気に対して日頃から一言物申したいと切望してきた面々であり、今回このRIKKYの呼びかけに応えた」と書いてある。自分が開いたイベントなのに意味が分からな過ぎる。満足のいく盛り上がりに主催メンバー一同、やり切った後味が残る夜だったことをよく覚えている。

 大学1年の終わりに西麻布で「ELMER」というイベントを開いた。「違いは争いや差別ではなく、ロマンスを生むことを証明する」という先輩の言葉を受け売りをコンセプトとして、不定期開催するパーティーをスタートさせたのだった。前日にイベント当日が大雪ということが判明して、搬入の車が使えなくなったときの絶望的な気持ちとか、不安なまま始めたけど、お客さんが盛り上がって凄く嬉しかったこととか、最後にフリースタイル合戦になったこととか、たくさん覚えてる。gloomy、butajiさん、ふるえるゆびさき、どのアクトも素晴らい演奏で本当に有り難い気持ちでいっぱいだった。

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 その勢いのまま、春休みに京都でもELMERを開く。Maho little Bear、isgaen、笑う環境音楽、Ö、in the blue shirts、全員大学生でイベントをやれて嬉しかった。島田くんと笑う環境音楽とisagenと有村さんでB2Bをやって、黒眼鏡Gさんが盛り上がってくれてたこと光景が懐かしい。

 

大学二年

 大学二年になり、キャンパスが都心になり、さらに週に六回、朝から夕方まで授業が有るという生活を送ることになる。今から考えると、どうしてそんな暮らしを送れたのか不思議だ。授業の時間の都合でそれまでの塾講師ができなくなったので、バイラルメディアのライターを始める。記事執筆にMacが必要だったのだが、当時はMacを持っていなかった。大学のiMacや六本木の雑居ビルにあるオフィスでMacを借りて、しこしこ記事を書いていた。今では複数人が働くようになった、その会社であるが、当時はオフィスには社長一人しかいなかったこともあって、よくオフィスに遊びに行って、色んなことを社長から教えてもらった。ITに疎かった自分に色んな知識へ興味を持つきっかけを与えてくれたのは、このときの社長だった。

 そして、また夏がやってくる。今度は渋谷でELMERを開くことになる。Soleil Soleilこと優作さん、ナツノムジナ、Carpainterのライヴ、同世代の人たちの演奏で盛り上がる空間を見れて、感無量だった。一緒に主催していた友達がお客さんに肩車されていたこと、フロアの雰囲気に手応えを感じたこと、この日のこともたくさん覚えている。

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 この夏は長い夏で、このイベントを開いた後に、アドテクの会社の短期インターンに行って衝撃を受けたり、シェアハウスを始めたりすることになるのだが、長くなったので、その2に続く。僕の大学生活序盤は音楽へと傾倒していたが、この夏に少しずつ変わり始めるのだった。

 

 

 

七夕、だからと言って何てことない普通の一日の話。

 内定祝いとして頂いた資生堂パーラーのチョコとチーズケーキを摘み、家の前の自販機で売ってた「ベリーと天然水」という名の世界のKitchenからの新製品を飲みながら、この文章を書いている。時間は2時51分。明日の朝も早い。だけど金曜日なので何とかなる気がする。

目の前で同居人のイタリア人が手に入れたばかりのパソコンを前に首を傾げている。僕の耳にはイヤホンから韓国人が作った細野晴臣が関わった曲で作られたmixが流れているので、彼が何と言っているかは分からない。僕の耳は彼の疑問よりも、いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリーの曲を優先している。

なんだか今日は素晴らしい日だったように思えるので、明日の朝も早いのに久方ぶりにブログに日記を書くことにした。1カ月前から「1993年生まれがマッキントッ書について調べてみた」という記事を書こうと思っているのだが、何だか仕事以外にキーボードを叩く気が沸かず、持ち越しとなっている。今回の日記がその記事を書くターボになればいいのだが…。

 

 バイト先の昼休み。銀座の鉄板焼き屋でお肉を食べた。味噌汁の器が湯のみで驚いた。食べ終わると別室に案内され、何かと思うと、その部屋で珈琲を飲む手順となっていた。銀座はふらっと入った店でたまにこんなふうに思いもよらないお洒落に出くわすことが多い。去年の夏はビーサンに短パンで出社していたが、今年の夏はそういう訳にはいかなそうだ。街が許してくれなそうだ。

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 ランチを終え、仕事に戻る。大学生にとって、夏は最もオフィスワークが心地いい季節だと思う。外は暑い。家でクーラーにあたっていても何をする気力も起きない。一方、オフィスはクーラーも効いているし、外に出なくても飲み物もお菓子も買える。そして生産性が高まる。そんな理屈で去年は恵比寿で沢山働いていた気がする。今年の夏も沢山働くことになりそうだなぁ。インターン先の合宿は片瀬江ノ島にて行われ、初日は喫茶店をまるまる貸切らしい。

 仕事の帰り際にパン屋で働いている女子大生に聞いていた質問が返ってきた。パン屋で働くとどうなるか?と尋ねていたのだが、彼女いわく、人はパン屋で働くと下記のようになるらしい。

・幅広い人種に出会うことで、キャパが広くなり、ひとに対して寛容になれる

・パン美味しいからひとにわけあたえたくなり、ひとに対してやさしくなれる

・強い見た目でかわいいパン買ったりするお客さんがいるので、ひとを見た目で判断しなくなる

パン屋で働く人間として、120点の解答ではないだろうか。他にも何人かのパン屋で働く女子大生にも同じ質問をしたが、皆、一様にパン屋で働いている人は優しそうな解答であった。恐るべしパンの力。自分もパン屋で働けば、もっと人に優しくなれたのかもしれないと思った。

 

 

 19時にオフィスを出て、赤坂へ向かう。もう1つのバイト先が七夕ということで短冊を実施していたからだ。20時から晩ご飯の予定があったのだが、折角の機会、季節ごとには乗っておいたほうがいいと思った。「卒業するまでに赤坂の会社でやりたい仕事の依頼が来るように」と願い事を短冊に書いた。slackを見ると、土曜日の朝にミーティングを開くことが決まっていた。行かなくても良いミーティングなのだけれど。インターンが会社のことを好きすぎて笑う。フライヤーも作られていた。

 

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 笹に短冊を結び、そそくさと赤坂を出る。新宿三丁目へ。中華料理屋で自分と自分の友だちの内定を先輩方に祝っていただいた。その際に貰った資生堂パーラーのお菓子が冒頭に摘んでいたものの出処だ。出版業界やグラフィティーの話で盛り上がる。僕がラメルジーの説明をするために「アルファベットが戦闘機になるんですよ」という言葉を使うと、目の前に座る先輩が不思議そうな顔をしていた。理由を尋ねると、ダダ宣言の冒頭にある「ABCは123を電撃する」という言葉が先輩のお気に入りのフレーズらしいが、その言葉にここ数年の中で最も近いものを感じたのが「アルファベットが戦闘機になる」というフレーズだったらしい。一方の僕は「ABCは123を電撃する」という言葉を知らなかったため、検索してみた。すると、望むような検索結果は出ず、どうやらそのフレーズはネットにない、あるいは奥底に埋もれているようだ。そして「もしかして?」という予測検索ワードに「ABCは123を電マする」という言葉が転がっていた。何故、「電撃する」が「電マする」に負けるのかはよく分からなかった。ちなみに「ABCはは123を電マする」という言葉の検索結果も、検索ワードどんぴしゃの文章はなく、微妙な結果であった。

 

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 そう言えば、先輩の家から駅にまで行く道の途中に、パン屋があるらしい。そのパン屋の開店の時間に合わせて出社するようになってから、規則正しい生活を送れるようになったらしい。パン屋はやはり偉大である。

 

 ほかにはパンチカードの話をした。パンチカードは1801年にフランスで生まれ、当時は自動繊機を制御して複雑な布を織るために使用されていた。そして、19世紀末にパンチカードを情報の格納庫として利用する者が世界中で現れた。例えば、19世紀末のアメリカは大規模な移民の受け入れにより、1880年の国勢調査が1889年になっても集計が完了しないという問題を抱えていた。計算している間に人口が大きく変動してしまう、この状況を解決したのパンチカードによる集計マシンで、これによって集計のスピードが10倍になったという。当時は手書きで記録を取り、それを事務所に持ち帰ってパンチカードに転記するという手間を踏んでいた。そのシステムには集計機自体も1回1回人間が処理の仕方を設定する必要があるなどの欠点があった。それでも、その圧倒的な処理能力は「驚異のテクノロジー」と賞賛され、様々な分野で使用されていくことになった。そして、パンチカードの「1行 80項目(桁)」という標準はFORTRANを筆頭としてその後のプログラミング言語にも長く受け継がれていくことになったという。そして1896年、この事業のために作られた会社が現在のIBMの母体になったのだ。そんなパンチカードの進化系がフロッピーである。マッキントッ書を調べている中で、フロッケのことを調べていたのもあって、フロッピーの魅力を語った。下に貼ったのは「GAME ON ~ゲームってなんでおもしろい?~」で見かけたパンチカードの写真。

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 宇川直宏の特集が組まれている雑誌を今度見せて貰う約束を交わし、一人で歩く帰り道。新宿三丁目から高田馬場へ帰る。僕は歌舞伎町や新大久保の雑多さが嫌いじゃない。夜や朝に散歩するには気持ちいい道だとさえ思っている。ゴミやダンボールで汚い街を見ると、人が生きていている様子を感じることが出来る。

 道中、中華屋に居た際に届いた友人や仕事先からの連絡を返す。一人の友達から「リッキーー!ほんとごめん!」という連絡が届いていた。ここ2か月ぐらい、いつものようにネットで見つけた面白い情報や仕事の連絡を彼女に送っていたのだが、返事が返ってきていなかったのだ。普段、そういうことがあると「あれ、嫌われたかなぁ」とか「返事返せよ」とか思ったりするんだが、今回に関しては全く何も思わず「まあ忙しいんだろう」と思った。そして変わらずシェアしようと思った情報を送っていた。そんな彼女から連絡が戻ってきたのだが、どうやら返事が出来ない事情があったようだった。でも特に何とも思っていなかったので、なんとなく「信頼の形」ってこういうものなのかなぁと思った。普段、自分が人を信頼していないみたいだが、自分は人に期待することが苦手なのだ。そんなこんなで彼女と夏休みに東京の雑居ビルの屋上を巡る話や就活が終わった報告をしているうちに家に着いた。

 

 最近、仕事で色んなところに文章を書いている。そうして気付いたのだが、自分はどうやら文章を書く行為が特段好きな訳ではない。そして得意ではない。だが、こうやって睡眠時間を削って、未来の自分に2016年の7月7日のことを伝える方法として文章はなかなか悪くないかもしれない。いつだって昔のブログを読み返すと、文章が下手すぎて辟易とするのだが、そんなパンチカードに処理できない、雑みの有る情報を残しておくのも悪くないかもしれない。その未熟さ含めて、いつかまた今日のことを思い出すだろう。歌舞伎町や新大久保の道端にゴミが溢れる様子が嫌いじゃないことも似たような話なのかもしれない。