週末は雑誌の表紙を撮影し回っている。

 この頃、野暮用で毎週末、様々な家にお邪魔し、その家にある雑誌の表紙と目次を撮影している。それが目的ではないんだけど、いろんな人の家の本棚を見て、雑誌の思い出を聞いて回るのは楽しい。

 

 そんな訳で、雑誌をたくさん持っている人は撮影しに行かせてもらえると凄く嬉しい。ついでに思い出を聞かせてもらえると、もっと嬉しいです。何でこんな酔狂なことをやってるかは、もう少ししたら世に公開する予定。

 

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いつのまにか世の中のブログはHow to記事と意見表明の記事ばっかり。

 雨の中、引越しに関わる事務作業をやっていたら疲れてしまい、気づいたら寝てしまっていた。起きてから入った風呂の中で「自分はどういう大人になりたかったけ?」と思い返すために、高校時代に読んでた、当時の東京の若手社会人や大学生のブログを読み返していた。

 

 もう5年以上前のブログの記事にはたくさん写真が載っていて、その日にあったことや考えたことが雑にまとめれていた。そういえば、いつからかそんなブログを見かけることが減ったことに気づいた。気づいたら、世の中には役に立つHow to記事とSNSのポジション取りのための意見表明の記事ばっかりだ。

 

 そんなこんなで、これからもっとラフに自分の日々のよもやまをブログにしていこうと思った。storyに流すだけだと日々を記録に残せないから、もっと人の写真を撮りたいし。

 

 写真は友達の家で見かけたレム・コールハースが作った雑誌みたいなデザインの本。中身がふざけていて面白かった。その話を別の友達にしたら、「磯崎新中二病的なところがあるけど、一方、レム・コールハースはお茶目でいいよね」って言われて、なんだか納得するところがある印象論だと思った。

 

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ブログの文章なんて、昔はこれぐらいラフなものだったと思うのだけれど、いつから今みたいになってしまったのかなぁ。

社会人になって一年経ったので、振り返ってみた。

 社会人一年目は人生で一番悩んだし、自分の考え方が一番変わった一年間だった。

 

 めいいっぱい楽しんだ大学生活と違って、楽しいと思える瞬間は社会人生活は全然なかった。

「会社の仕事も面白くて、副業も順調で、週末は楽しんで・・・」みたいな理想像からは程遠い一年間だった。会社の仕事は全然楽しくないし、会社の仕事で忙しいのに副業の仕事の締め切りも近いし、断れないし、週末はそんな毎日から逃げるように遊んでたせいでまとまった時間を取って、勉強することもできなかった。

そして会社に入ってから、この一年間でスキル面における成長は全然なかったと思う。アプリのデザインからテレアポまでやって、自分は何の仕事をしてる人なのか、よく分からない一年間だった。

 

 でも、そういったしんどい経験のおかげで良いことがあった。しんどい状況を乗り切るためには自己分析をして、何故、自分はしんどいと感じてしまうのかについて考える必要があった。そうすることで、自分の性格のダメなところに向き合うことができた。

 24歳にしてようやく自己認知したのだが、自分はコンフォートゾーンの外に出ることが苦手で、自分と話が通じる人としか話したくなくて、人のアドバイスを素直に受け取ることができない頑固で偏屈な人間なのだ。こういった性格を把握することが出来たから、自分の苦手なことにも取り組めるようになり、自分と価値観が違う人と話すためにはどう話せば良いか考えるようになり、人のアドバイスに耳を傾けようと思えるようになった。他にも大嫌いだったノートを使って物事を考えることもするようになったし、すごい苦手だった一日一日の振り返りにハマったりしたり、書き切れないぐらい性格や行動の変化があった。

そして、これまでの何事にも代えがたい大事なことだったし、評価されることが多かった、自分自身の「こだわり」やその「こだわり」にまつわる成功体験も捨てることが出来た。上記で挙げたように、社会人として不完全な自分の「こだわり」なんて無価値であると思えたのだ。そのおかげで、自分がこだわりたいことよりも、事業として優先すべきことに取り組もうと思えるようになった。(自分がこだわりたいことと事業として優先すべきことが一致してるのが理想なんだけど、そうすることは自分には出来なかった)

 

 もちろんまだまだ直せていない欠点も沢山あって、例えば自分は過度に自分を過小評価してしまう傾向にあるのだが、それを直せていない。この傾向を具体的に説明すると、自分は大きな効果を出したものだけ成功した仕事と捉え、それ以外は全て失敗したと捉えてしまうというものだ。しかし、仕事はそんな「成功」「失敗」の2つに分けれるものではない。少なくともせめて「成功」「ちょっとした成功」「普通」「ちょっとした失敗」「失敗」の5つのグラデーションの評価軸ぐらいは用意するべきだろう。他にも自分の提案が否定されると自分自身が否定されてしまったように感じるなど、直せていない欠点は数え切れないくらいある。今年は直せるように頑張る。

 

 この一年間、友達や同居人に「リッキーに今の会社は合ってないんじゃないか?」と何十回も言われた。実際、自分でもそうだと思うし、入社する前からそう思ってた。ただ自分がコンフォートゾーンから抜け出したくない性格だし、社会の王道のような価値観の人と話すことが苦手だと知っていたから、あえて合ってない環境を選んだ。仕事において「自分に合ってる」とか「楽しい」とかも重要な要素だと思うが、「自分が成長する環境はどういった環境であるか?」と考えると、「自分に合ってる」とか「楽しい」とかはもしかしたら重要な要素ではなくなることもあるのではないか?と思う。自分に合ってないし、楽しくないし、SNSで見かけるようなキラキラした社会人生活は送れない一年だったが、自分の考え方がとてつもなく変わって成長できたと思える、良い一年だった。

 

 とりあえず最近久しぶりに会った人に「太ったねー」と言われるのが嫌だし、これまでの自分では絶対にやらなかったであろうことに取り組むことが今年の目標なので、ジムに登録した。社会人二年目は一年目より成果に拘って、痩せる一年にしてみせる。この一年の途中、いつでも振り返れるようにブログに書く。

 自分は天才でも優秀でもイケメンでもないので、泥臭く頑張る。

 

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美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。

GWに朝ごはんを食べに訪れた、友達ん家の屋上から見える景色が爽快だった。

そんな訳で「On the roof」という名のホームパーティーを小規模ながら屋上で開いてみた。
初めて屋上でパーティーをしたけれど、「ぼんやりとした話をするのに屋上は向いているなー」とか「屋上で大音量で鳴る音は爽快だなー」とか色々と発見が会った。

一軒家で24時間レイヴをしたり、クラブでイベントを開いたり、色々なパーティーを催して来たけれど、いつも人がたくさん集まって動いている様子を観察していると、たくさんの発見がある。どんな料理を食べるか、どんな曲が流れるか、どんな景色か、どんな人がいるか、どんな会話をするかなどなどの数え切れないほど、沢山の刺激を個人が受け取ることにより、パーティーの雰囲気は決まっていく。どんな刺激と刺激が組み合わされば、人々はどういう風に動くのか、どんな感情を抱くのか、少しずつ学んでいくことは、人間がどういう生き物なのかを学んでいくことなんじゃないかな、と少しだけ思う。

そういえば、今回はこれまで開いたパーティーの中ではあまり聞くことのなかった「チル」という単語を沢山聞いた。「僕がToro y Moiを聴いてた高校生だったとき、誰も「チル」なんて言葉を知らなかった。けれど、いつの間に「チル」って言葉はこんな市民権を得たんだろうか」と帰り道に考えていた。「チル」という言葉が普及する前に、若者って「チル」みたいなものを求めてたっけ。

どっかの社会学者に「あらかじめ全てを諦めている世代」とか僕らは言われていて、まぁ、それも分かるけど何かそんな簡単な言葉で僕らの気持ちは説明できないと思うんだよな、というかそもそも諦めている訳じゃないんだよな、とか前々から思っていたけれども、なんだかその違和感の鍵が「チル」という言葉の普及にあるんじゃないか、なんてことを考えていると、家に着いた。

パーティーはいつだって思いもよらぬ刺激を僕にくれて、思いもよらぬ考えに僕を至らせる。
パーティーを開いて、哲学する。そして、またパーティーを開く。
その繰り返しの中から解けるようになるものは何だろうか。

それにしても、美しい青空が見え、気持ちのいい風が吹いて来て、音楽が鳴っていて、思わずstoryにあげたくなる、そんな場所はいつだって素敵なことが起こりそうな気持ちに僕らをさせてしまう。そのチルな魔法の秘密もいつか解き明かせるんだろうか。

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「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

 最近、読んだ本の中で一番面白かったのが栗原康さんの「死してなお踊れ」。鎌倉時代アナーキー坊主こと、踊り念仏を唱えた時宗の一遍の生涯を描いた一冊なんだが、超現代語訳で彼の人生が語られており、読めば一遍と極楽に往くまで踊りたくなる、何度でも。

「いくぜ極楽、なんどでも。一遍の踊り念仏にはそうおもわせてくれるなにかがある。きっとそれは、現代に生きるわたしたちにとってもだいじなことであるはずだ。とにかくはねろ。ピョンピョンはねろ。現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる」

「成仏するということは、逆むきの時間を生きるということだ壊してさわいで燃やしてあばれろ」

「アミダの力はすでにある、いつでもつかえ、もっともっと仏なんか信じなくてもいい、キレイもキタナイも関係ないね」

「国土じゃねぇよ、浄土だよ」

などなどのパンチライン連発で音読せずにはいられない本でした。読んでるだけで速まる体内のBPM、頭の中で坊主も農民も武士も関係なく踊り出す、ソウルフルな文章が詰まってます。おすすめ!

 

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死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

 

卒業式のためにスーツを買う理由。

 高校生の頃から、社会人の先輩各位がどうして花見や忘年会を催しているのか、不思議で仕方なかった。しかし、四年生になり、自分より先輩は働いてるし、同期や自分も就活やら院試やらで忙しくなって、その理由が分かった。人間は忙しくなると理由がないと会わないし、会えないのだ。そんな状況下で誰かに会うための理由として花見とか忘年会とかは便利なんだなーと気付いた。季節に紐づく会う理由は先延ばしに出来ないから、会うために日常のあれやこれやをどうにか片付けようと思うのである。

 

 なんだかんだ大学四年生の一年間は忙しく、僕自身、これまでの大学生活に比べて会う人は減った一年間であった。そんな一年間の最後の三ヶ月に定期的に友達と会う理由が毎週あった。その理由が先日、最終回を迎えることになった「カルテット」である。周りからの「見なきゃいけない!」という連絡により、四話目頃に一気見することで放送分に追いついたのだが、周りにカルテットを見てる友達が多かったこと、人と感想を語りたかったことから、カルテットを見てる友達のチャットグループを作成した。そのグループの中の人で集まれる人を毎週火曜日22時に我が家に集めて、カルテットを観る会を毎週行っていた。毎週毎週、僕以外は初対面の人間が集まり、ドラマを観て感想を交換し合う様子は愉快であった。テレビを見るために集まるという、テレビ創世記の街頭テレビの時代かのような状況を見て、「これが果たしてNetflixYouTubeであったら実現するのだろうか?」と不意に思った。恐らくは実現しないであろう。「いつでもどこでも観れる」という自由さは人を集めづらいだろう。ましてや僕以外は初対面の人間なんて集めることは難しいだろう。「カルテットを観る会」は火曜日22時から放映されるという決められた時間であったこと、そして四月には放送が終わってしまうこと、更には観てすぐに感想を話したいこと、それらの条件が揃ってたからこそ、成立した集まりなのである。季節に紐づく理由と同じく、この会もまた有限であり、時間が過ぎ去れば二度とは再現されないことがわざわざ集まる力になっていたのである。

 

 ともすれば、過ぎ去って行く何かには人を動かさせるエネルギーがあるのかもしれない、と思いながら、今日はスーツを買った。似合わないからスーツなんて大嫌いな自分が明日の卒業式で着るために青山まで出向いた。「卒業式なんて儀式的なものだし、大した面白い行事でもなかったね」と先日、卒業式を終えた友達がカルテットを観る会で話していたけれど、ほんとその通りなんだろう。だけども、大学生活も卒業式ももう二度と訪れない。もう誰かと肩を揃えて何かから卒業するなんてことすら二度とないかもしれない。そういった有限性、再現不可能性が自分にこの行動を喚起させるのだろう。つまりは何かが終わって行くことは寂しいことだが、終わっていくからこそ、何かに奮い立たされ、人生が回転していくのではないだろうか。
 
僕は世俗的で平板な社会に旅立つことにするよ。
青春よ、アデュー。

 

 

 

 

 

 でもやっぱり全然卒業したくねーーーーーー!!!!もっと勉強したいし遊びてーーーー!!!って本音では思う。

複製技術時代に失われたアウラと、データ通信時代に失われたアウラの差分とはなんぞや。

  同居人と昼飯の中華を食べながら、発展場として利用されている映画館って最初からそのような目的で作られたとは思えないし、どういう経緯でそのような使い方が根付いたんだろうか?と話していた。タクティカルアーバニズム然り、空間を作った人が想定していない空間の使い方を生活者が行う現象は興味が湧くので。

  同居人曰く「そもそも昔は映画館でいかがわしいことを行う人がもっといたのではないだろうか?」とのことだった。ドライブインシアターは車という密室で恋人といちゃつくのを主目的に作られた場所であるし、ポルノが日常に溢れかえった現代とは違って、映画館とテレビでしか映像を見なかった時代の人にとっては、ピンク映画や映画のエッチなシーンは現代に生きる我々からは想像できないほど、刺激的な代物だったのではないか、と考えれば、大人向けの映画館が情事に耽る場所として成立していてもおかしくないのでは?という考えがその仮説の論拠だ。(調べてないので実際のところはどうか分からない)

  その話を聞いて、VHSのドキュメンタリーを見たときに、VHSマニアたちが「中古VHSのおっぱいが出るシーンは必ずと言っていいほど、ノイズまみれなんだ。これまでの持ち主がそのシーンだけたくさん巻き戻しした痕跡がそうやって残ってるのさ」と話していたことを思い出した。インターネットでポルノが日常的になってしまった現代において、起こり得ない現象だろう。また思い出したことをきっかけに、VHSの持ち主が変わったとしても、テープのノイズという形でこれまでの持ち主の痕跡が残るのは改めて興味深い現象だなーと思った。

  振り返れば(めちゃくちゃ振り返るけど)20世紀初頭、機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になったことで、オリジナルの作品から「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする「アウラ」が失われると、ヴァルター・ベンヤミンは唱えた。しかし、21世紀初頭の現代において起きていることは、テクノロジーの発達において、芸術がモノを媒介とせず、web上のデータとして存在し、データのまま享受することが当たり前になる現象である。このことにより、芸術は、情報は、モノとして存在し得なくなり、唯一無二性のアウラだけでなく、存在としてのアウラを失った。

  前述の「おっぱいが出るシーンだけ何度も巻き戻されたため、ノイズまみれのVHS」のような存在はこの現象下では失われる。

  複製技術時代になることによって失われたアウラと、データ通信時代になることによって失われたアウラにはどのような差分があるんだろうか。誰かそんな本を書いてないなー。そういった文章を読んだことはあるけど、本のテーマとして書かれてるわけではなかったので、それをテーマに書き切った本が読みたいなーと思った。最近、読みたい本のテーマがどんどん思い浮かぶ。自分の中で適当に立てた仮説を立証しているような本ないかなーと思って探すのは楽しい。